生きているならそれでいい・後編
加えて、汚い話になるけれどこの患者さんのリハビリに関わっているとよく放屁されたりする。
まあリハビリ自体、身体をいつも以上に動かすわけだし、高齢になると何かをこらえるのも難しくなるし、仕方がないことではあるんだけどね。
さらに加えて言うと、その患者さんもかなり認知症が進んでいて、放屁の後も特に悪びれたり、恥ずかしそうにすることもなく、だから何だといった表情で私を見つめていたりする。
私も私で、移乗とかで患者さんと触れた時に便の匂いをくらうことは日常茶飯事だし特に何の嫌悪感もなく見過ごしているんだけどね。
ただ、そんな風に患者さんから屁をくらったときに私はいつも
「腸が動いてよかったですね」と言うようにしている。
これは皮肉ではなくて、歳をとると内臓の機能は落ちるし、身体の中でうまく動かなくなる部分が出てくるからこそ、せめて腸だけでも、その人の力で動いたのならそれでいいと言ってあげたい気持ちからだ。
ちょっと話は変わるけれど、私自身、人前で自分の内から汚物が出ることを酷く恐れていた。
アレルギー性の鼻炎のせいか人前で鼻血が出ることが何回もあったし、生まれつき乗り物に酔いやすくて急に気分が悪くなり吐いてしまうこともあった。
思春期になればいつかのnoteで書いた呑気症になり昼食後に誰かの前の席に座るのが怖かった。
今となっては医療の力を借りつつこれらの症状は抑えられるようにはなってきたけれど、特別なイベントの前は粗相がないか心配で緊張しやすい。
まあどれも珍しい症状ではなくて、心身に強いストレスがかかれば誰でも起こり得ることだけど人前で出てしまうと恥ずかしいし、相手によってはその後の関係性が不安になるもの。
年老いて認知症が入っていても、粗相があれば恥ずかしいと思う患者さんは少なくないだろう。
それでもその人に起こった身体の反応に引くんじゃなくて、「大丈夫だよ、これからもあなたとの関係は変わらないよ、変わらず大切にするよ」と語るように優しく対応するように意識している。
(この気持ちが伝わっているかはわからないけど)
ある意味、過去の自分を救う方法でもあるんだろうけどね。
神様がどんな私たちも愛してくださっているように、患者さんを愛せるようになりたい。
その人に起こった反応、一つ一つと向き合いながら最後までその人らしく生きられるように、できることを見つけていこう。
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