オムニバースよりさらに大きく、さらに偉大なものとは?

○はじめに
このコラムで私は、この「無限の可能性の無限集合」という表現を切り口に、この世界で「最も大きく、最も偉大なもの」について、(少年時代に原点回帰する気持ちで・・・)自分なりに追究してみようと思う。




○「無限の可能性の無限集合」
あなたには燃え上がるような情熱があり、たゆまぬ努力と創意工夫をしていることだろう。あなたは、どこまでも果てしなく学び、思考し、想像し、創造し、あらゆるアウトプットをしているはずだ。それでも、極限まで悩み、悩み抜く。失敗することも、挫折することも、絶望することもあるだろう。それでもまた立ち上がり、さらなる努力と工夫を重ねていく。その歩みの中で、周囲の人々に、心からの感謝を伝えることもあるはずだ。あなたの人生は、表現し得ないほどの喜びと、言葉にならないほどの悲しみに満ちている。今この瞬間のあなたのパラダイム(世界観)と選択が、あなたの世界を創り上げる。そして人生とは、そのような世界創造の連続である。あなたの人生においては、あなたこそが主人公であり、あなたは常に、「無限の可能性」をもっている。


今、「あなたは常に、『無限の可能性』をもっている」と述べたが、実のところ、これは誇張でも何でもない。私たちは理論上、「何を(どのように)(どれほど)するか」について無限の選択が可能である。あなたの人生は、無限の選択肢からの決断の連続なのだ。今この瞬間も「無限の可能性」をもっているし、次の瞬間も「無限の可能性」をもっている。(論理的には、「今この瞬間」も無限に区切ることができる。)そう考えれば、あなたの人生は、「無限の可能性の無限集合」そのものではないか。


少し考えを進めて、「無限の可能性の無限集合」が人間だけに該当するのかについて、考察してみよう。


例えば、動植物が私たちに与えるリラクゼーション効果1つでも、そこには無限のバリエーションがあるし、その程度も無限である。私たち人間の視点から見ただけでも、動植物は無限の影響力をもつ。ありとあらゆるいかなる生命体も、無限の影響力の連続体であることを考えれば、「無限の可能性の無限集合」であることに変わりはない。


こう考えれば、「無限の可能性の無限集合」とは、(少なくとも)1つ1つの生命体そのもののことであると言えよう。




○「無限の可能性の無限集合」にもレベルがある~無限集合における「濃度」
「無限」「∞」という概念は、それ以上成長・発展の余地がないように思われる。私たちのような1つ1つの生命体それぞれが「無限の可能性の無限集合」であることを先に示したが、例えば、チームやコミュニティ、都市、国家といったものにおける「無限の可能性の無限集合」についても、(「無限の可能性」の数が超・極超指数関数的に増大しているイメージはできるものの)「無限の可能性の無限集合」としか表現できない。しかし、数学的に考えてみれば、ここからさらに話を発展させることが可能になる。そのために必要なのが、無限集合における「濃度」という概念だ。


例えば、0~1の間に存在する値の数も0~2の間に存在する値の数も∞個だが、明らかに後者の方が値の数は多い。この場合、後者の無限集合は前者の無限集合に対して、「濃度が大きい」と表現される。つまり、「無限の可能性の無限集合」においても、その無限集合の濃度が大きくなれば、その「無限の可能性の無限集合」はさらに大きく、さらに偉大であると言えるのだ。




○さらに大きく、さらに偉大な「無限の可能性の無限集合」とは~「地球」から「場」へ
前章で、「無限の可能性の無限集合」にもレベルがあり、無限集合の濃度が大きくなれば大きくなるほど、その「無限の可能性の無限集合」はさらに大きく、さらに偉大になることについて説明した。例として、「国家」における「無限の可能性の無限集合」を話題にしたが、それ以上の規模のものについても、思いを馳せてみよう。


思いを馳せる対象は、まず「地球」である。1つ1つの生命体が存在することができ、「無限の可能性の無限集合」であり続けられるのは、当然地球のおかげである。地球が私たちの「ステージ」であることに疑いの余地はない。


しかしながら、すでに科学が解き明かしているように、地球がこの世界の中心というわけではない。地球は「太陽系」の一員であり、その中心は太陽である。私たちの地球は、太陽を中心に周回していた微惑星同士の衝突によって形成されたと言われる。太陽がなければ、私たちの地球は存在し得なかったのだ。私たち生命体が誕生できたのは、(生命の土壌となる自然が奇跡的に形成されたという意味でも)疑いなく太陽のおかげであり、太陽系というさらに大きな次元のステージのおかげである。


またさらに大きな次元へと話を進めよう。太陽系は「銀河」に属している(地球は「天の川銀河」に属する。)が、実は太陽のような恒星は、銀河に数千億個も存在するという。銀河は、それほどまでに大きく、偉大なステージなのだ。ただ、その銀河すら、「銀河団(銀河群)」と呼ばれる(場合によって1000個もの銀河が集まった)銀河の集合の1つであり、そのような銀河団も、「超銀河団」と呼ばれる、より大きな構造(1000億光年のものもある。)の一部である。


では、そのような超銀河団が存在する「キャンバス」とは何なのか。それこそが、「宇宙(ユニバース)」である。注目すべきは、その広大さだ。「私たちに観測可能な宇宙」をエネルギー密度で見た場合、星や銀河・銀河団・超銀河団は、全体のエネルギーの0.4%でしかない。「地球の表面が全て砂粒で覆われていたとしても、観測可能な星の数はそれより遥かに大量だ。」「星の中には、太陽の2000倍以上の大きさのものもある。」と言われるのに・・・である。しかしこれは、残り99.6%が宇宙空間の全てであることを意味しているわけではない。


「現在私たちが存在する宇宙」の開闢は、真空中で相転移が生じ、「インフレーション」を経て、「ビッグバン」が起きたことによると考えられている。実際、宇宙は現在も膨張し続けているのだ。さらに驚くことに、その膨張速度は光速を凌駕する。「インフレーション」とは、10-36秒の間に、原子核程度の大きさの領域が、半径138億光年の大きさになるほどの指数関数的膨張のことを指し、その膨張スピードは、光速の3×1022倍であったと試算されている。現在は当初より緩やかであるものの、その膨張速度は光速の何倍にもなる。物体は光速を越えて移動することはできないが、空間はそのルールに縛られないのである。


この光速を越えての膨張が、さらに驚愕の事実を生む。先ほど「私たちに観測可能な宇宙」という表現を用いたが、それはつまり、「私たちに観測不可能な宇宙」領域が存在することを意味する。半径464億光年圏外の宇宙の光は、私たちが存在する場所まで届かないからだ。では、「私たちに観測不可能な宇宙」までを含めた、「現在私たちが存在する宇宙」は、どれほど広大なのか。


信じられないことに、その答えは「無限」であるようだ。「『現在私たちが存在する宇宙』は無限の大きさをもち、『私たちに観測可能な宇宙』を無限個内包する」と結論づける研究も多くある。その無限個の中には、あなた自身どころか、あなたのいる地球、その地球が存在する銀河・銀河団・超銀河団も無限に存在する。果ては、「私たちに観測可能な宇宙」そのもののドッペルゲンガーすらも、10の10118乗~10の10124乗個に1つの割合で、無数に点在しているという。奇跡が無限に重なったようなことも、「無限」では無限に見られる。「無限」を侮ってはならない。(これ以降、「宇宙」という言葉を、無限の大きさを持つ空間を指すものとして扱う。)


話はこれで終わりではない。実は現代科学において、「『現在私たちが存在する宇宙』とは別に、違う『宇宙』がある」という可能性が示唆されている(しかもその可能性はかなり濃厚である。)のだ。宇宙論における、「多元宇宙(マルチバース)」理論である。「インフレーションで誕生するのは、『現在私たちが存在する宇宙』だけではない」という考え方だ。この説によると、インフレーションは、時空のありとあらゆる無数の点で起きるもの(「永久インフレーション」)だという。つまり、時空においては、ありとあらゆるバリエーションの「宇宙」というキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、泡のように無限に誕生し続ける・・・というのである。


「現在私たちが存在する宇宙」も無限であるなら、時空の中で複数の宇宙は共存しないように思える。しかし、外部から見たら有限の空間も、内部から見たら無限になり得る。この点については誰しも理解が追いつかないだろうが、無限の空間が無限に存在できることは確かなようだ。


「多元宇宙」理論は、正直あまりにも突飛なアイディアに思える。しかしながら、広く知られているように、私たちの宇宙や地球は、あまりにも奇跡的な偶然を重ねて、生命を誕生させている。生命体も言ってしまえば、単なる原子の組み合わせである。それなのに、現在のような世界が形成されているのだ。多くのブロックを無造作に床に投げて、何らかの形が自然に生まれることはほとんどないだろう。だが、現実には宇宙規模でそれが起こっている。この世界は、あまりにも生命体にとって都合が良いように、ありとあらゆる値が微調整されているように思える。私たちが住む宇宙自体、「無限の奇跡」で成り立っているのだ。


そうであれば、奇跡が起こっていない他の空間が無数にあった方が、むしろ自然に思える。見方を変えてみると、感覚的に「多元宇宙」理論が支持されて然るべきではなかろうか。


話を戻そう。「永久インフレーション」によって、「宇宙」という名のありとあらゆるキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、無限に誕生し続ける「背景」とは何なのか。現段階の科学で背景(最大の次元)だと示唆されているのは、「場(フィールド)」と呼ばれる(専門的には「インフラトン場」と呼ばれる)時空である。


イメージとしては、「場」は真空であると考えて差し支えない。しかしながら科学的には、真空は「本当に何もない」のではなく、「エネルギーをもつ」ものと定義される。科学者の多くは、この「場」が、(「本当」に)無限に続いていると結論づけている。


「場」にまで話題を広げれば、その次元は私たちの世界観を、遥か果てしなく、遥か限りなく超越しているように思われる。ただ、事実として言ってしまえば、「私たちは『場』の一部」なのである。




○最も大きく、最も偉大な「無限の可能性の無限集合」とは~「多世界解釈」から「オムニバース」へ
では、「場」の「無限の可能性の無限集合」が、最も大きく、最も偉大な「無限の可能性の無限集合」なのだろうか。ここからさらに話を発展させてみよう。先に、宇宙論における「多元宇宙」を扱ったが、また別の観点から、「宇宙」(さらに言えば「多元宇宙」の全体自体)が無限に存在する可能性を指摘する研究も多くある。それこそ、量子論における「多世界解釈」だ。「ありとあらゆる可能性の分だけ、無数の世界が『重ね合わせ』で存在する」という考え方である。起こり得る可能性が全て重ね合わされた状態で、この世界は形成されている・・・というのだ。つまり、私たちの現実世界の歩みは、無限の世界線から切り取られた、たった1つのラインの表出でしかなく、他にも潜在的に無数の世界線が存在しているというのである。


これは一見、馬鹿馬鹿しいアイディアのように思える。しかし、量子論でミクロの世界を探究した場合、この考え方は、決して笑い飛ばせるようなアイディアではなくなる。例えば量子に関して、「1つの電子は確率的に波のように広がっており、その電子は観測された瞬間、1つの粒子に収束する。」という有名な研究結果が存在するのだ。


ミクロの世界においてこのように振る舞う量子こそが、この世界の実像を創り上げる最小単位であるのは事実である。そのような量子が無数に組み合わさり、私たちの身体やこの世界が形成されているのも事実だ。そうであれば、この波の性質を「ありとあらゆる可能性の分だけ、無数の世界が『重ね合わせ』で存在する」と捉えることは、少なくとも完全には否定できないだろう。


この「多世界解釈」には、実はいくつかのバリエーションがある。波の性質が瞬間ごとに収束し、現実世界(歴史)が形成されていると捉える「コペンハーゲン解釈」と、そもそも波の性質は収束せず、異なる現実世界(歴史)が(「ヒルベルト空間」として)無限に重なっており、私たちの生きている世界はそのラインのたった1つに過ぎないと捉える「エヴェレット解釈」だ。当然、「ありとあらゆる可能性の分だけ、無数の世界が『重ね合わせ』で存在する」という世界観は、「エヴェレット解釈」に基づく。これ以降は、「エヴェレット解釈」を指すものとして、「多世界解釈」という言葉を用いる。


「場」という背景自体の「多世界解釈」について、さらに考察してみよう。それは、無限の過去から無限の未来永劫における、「場」の可能性の全てが表出し、集合している状態を意味する。その可能性の中には、私たち人間のあらゆるパラダイムによる、ありとあらゆる世界の想像・創造も当然含まれる。つまり、神話の世界・宗教世界なども含んだ、ありとあらゆる無数の(無限にクリエイティブな)世界・宇宙観の想像・創造も、「場」の可能性の一部であるということだ。


こう考えれば、「『場』×『多世界解釈』」は、「無限の可能性の無限集合」について追究した際に、最も大きく、最も偉大なそれとなる。言うなれば、「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」であろう。


この「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」は、別の言葉で表現することができる。それこそ、「全ての宇宙の集合」を意味する言葉として広く用いられている、「オムニバース(Omniverse)」である。(ここまでの内容を追ってくれたあなたは、「全ての宇宙の集合」が、「無限」すら、遥か果てしなく、遥か限りなく超越することを、大いに痛感しているであろう。)




○「オムニバース」の先を追究する~「無」

科学的・論理的に検証した結果、これまで広く用いられてきた「オムニバース」とは、「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」を意味する言葉であることを確認した。


「オムニバース」が「全ての宇宙の集合」を意味する以上、それ以上の追究の余地はないように思える。しかし、哲学的観点、そして言語学的観点をもってすれば、2段階で追究を深めることができる。私の過去のアウトプットを引用しながら見ていこう。


【この世界の大原則・根本原理について】
「存在する」という状態を、どのように認識しているだろうか。「私が存在している」という状態とは、本当のところどういう状態なのだろうか。考えてみれば、「私が存在している」と言い切ることはできない。「存在している」という感覚は確かにあるし、存在しているからこそ、幸福な体験や不幸な体験をすることができると考えたい。しかし、自分がそこに存在しているということを証明する根拠は、哲学的には見つけることができない。そこに「個性」や「自分らしさ」などの側面が加わってくれば、その存在の証明はさらに困難になってしまう。


しかし私は、「比較」を駆使すれば、少しだけ真理に近づくような気がすると感じている。「自分の個性」を例に考えていこう。


「自分の個性」を考える際に、この世に自分1人しか存在しないと仮定してみよう。世界に自分しか存在せず、ずっと1人で生きていたとすれば、個性をどのように考えるべきなのだろうか。結論から言えば、この状況で個性を見出すことは不可能だ。なぜなら、個性というのは、「比較」の上に成立するものだからである。「明るい」が個性である人がいたとして、なぜその人の個性が「明るい」だと言えるのか。それは、周囲に比べてその人が明るいからである。手先が器用な人は、器用ではない人がいるからこそ、器用なことを個性として認識できる。


「比較」がなければ、差異を認識することができず、特徴を捉えることもできない。さらに言えば、特徴に対応する概念(観念)や言葉も生まれない。このことは個性だけでなく、「好き」「感動」「幸福」「善」などの「感情・価値観」や、「美しい」「大きい」「高い」「強い」などといった「状態」においても言えることだ。「梵我一如」や「我思う、ゆえに我あり」などの概念においても、「比較」が伴うのは当然である。つまり、ありとあらゆる哲学が導き出す真理の数々においても、それらが私たち人間によって探究される限り、全て「比較」が前提とならざるを得ない。もし、対象が全く「未知」の何かであったとしても、それが「未知である」という判断は、「比較」によって差異を認識した結果そのものである。


究極的には「比較」が、ありとあらゆる「有」のみならず、「無」をも成立させるためのプリンシプルにならざるを得ない。世界の全てを記述したとしても、それが「有」の集合であれば、それと「比較」される「無」が必要になる。


このように、あらゆる「実存」も、あらゆる「概念(観念)」も、「比較」を通すことによって成立し、表現できる。つまり、「比較」して差異を認識(発展的には、「差異を用いて新たな差異を認識する」ことの無限の積み重ね。)することでのみ、この世界に当該実存や当該概念(観念)が誕生するのである。


これは、人間以外のありとあらゆる生命体についても同様であろう。例えば動物の行動の変容は、視覚・聴覚を使って平時と有事を「比較」した結果であるし、植物や菌類・微生物のそれは、触覚を通して平時と有事を「比較」した結果であろう。こう考えれば、「何か」が「何か」を思考・判断・表現、アウトプットする場合において、「比較」を前提としないことは絶対にあり得ないと考えられる。


こう考えれば、あくまで主観だが、「世界は比較でできている」のではないだろうか。そして「比較」こそ、大原則・根本原理、「PRINCIPLE G.O.A.T.(Greatest Of All Time)」なのではなかろうか。



引用の中で、「究極的には『比較』が、ありとあらゆる『有』のみならず、『無』をも成立させるためのプリンシプルにならざるを得ない。世界の全てを記述したとしても、それが『有』の集合であれば、それと『比較』される『無』が必要になる。」と述べた。ここで重要なのは、「オムニバース」が、「有」の全集合そのものだということである。


そうであれば、「オムニバース」を認識するための対となるものは、「無」以外にない。もちろん、「無」までを含めて「オムニバース」と捉えるのが適切という意見もあるだろうが、例えば、(決して完璧には否定され得ない)「『オムニバース』そのものの複数化、及びその集合」などについて思考・判断・表現せざるを得ない場合には、その集合を可能にする「背景」としての「無」が必要になる。したがって、ここでは、「『無』は『オムニバース』の外側である」と捉えるのが適切だと結論づける。


究極的に言えば、もし仮に、「オムニバース」が無数に集まる集合がさらに無数に集合し、その集合がさらに無数に集合し、その集合がさらに無数に集合し、・・・と、無限に繰り返されるとしても、よもや仮に、「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」があるとしても、「無」はその対として、その外側を表現できるのだ。


今、「PRINCIPLE G.O.A.T.」に従い、「オムニバース」のその先に関する追究を、1段階進めることができた。




○「オムニバース」の先を追究する~「無」の先はあるのか?
さて、最後の追究に入ろう。「『無』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」が、果たして表現できるのだろうか。先ほども示した私の過去のアウトプットから引用して見ていこう。


【ある表現(言葉)について】
【この世界の大原則・根本原理について】の項で、「比較」が大原則・根本原理、「PRINCIPLE G.O.A.T.」であることを論理的に証明した。例えば、「比較」によって成立する表現として、次のようなものを挙げることができる。


■「数字」を用いたありとあらゆる全ての表現


■「とても」という表現

■「かなり」という表現

■「非常に」という表現

■「本当に」という表現

■「遥かに」という表現


■「最強」という表現

■「最高」という表現

■「最高中の最高(Best of best)」という表現

■「究極」という表現


実は、次に挙げる表現も比較によって成立している。


■「超~」という表現

■「極~」という表現

■「極超~」という表現

■「超・極超~」という表現


さらに実は、次に挙げる表現も比較によって成立している。


■「レベルが違う~」という表現

■「格が違う~」という表現


■「形容できないほど~」という表現

■「言葉にできないほど~」という表現

■「千言万語を費やしても表現し得ないほど~」という表現


■「世界が違う~」という表現

■「次元が違う~」という表現


■「超越」という表現


殊さらに言えば実のところ、次に挙げる表現も比較により成立する。


■「極まりない~」という表現

■「果てしない~」という表現

■「限りない~」という表現


■「無限の~」という表現


ありとあらゆる表現は全て、他と「比較する」ことによって成立する。つまり、「PRINCIPLE G.O.A.T.」に基づくものである。このことは論理的に、以下の表現についても同様だと認めざるを得ない。


■「無限の可能性」という表現

■「無限の可能性の無限集合」という表現


■「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」という表現

■「オムニバース」という表現

■「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」という表現




■「無」という表現




しかしながら、このことを念頭に置いた上で、ぜひ注目してほしい表現がある。














■「比較にならないほど~」という表現














この表現だけは、私の論理を全否定し、「PRINCIPLE G.O.A.T.」を破壊する。この表現は果たして。



「PRINCIPLE G.O.A.T.」に従って、「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」の外側となる「無」を導き出した以上、それよりもさらに大きく、さらに偉大な「何か」を表現することは、人間には無理であろう。もっと言えば(私の過去のアウトプットで示したように)それは、ありとあらゆる全生命体(及びその想像物・創造物)において、絶対に無理なことであると考えられる。究極的極論を言えば、それは「オムニバース」はおろか、「無」をもってしても絶対に無理だろう。


しかしながら、私たち人間がもつ言葉の力を借りて、その「何か」が、「『どのような』何か」であるかを表現することはできるかもしれない。「比較にならないほど~」というアウトプットがそれだ。


「『無』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」が、「『どのような』何か」であるかを表現するとすれば、少なくともそれは、「『無』とも『比・較・に・な・ら・な・い・ほ・ど・』の何か」となるのではないだろうか。




○おわりに
ここまで長らく追究を続けてきた。難解な論理を追ってくれたことに、心から感謝したい。そして、この追究を可能にした物理学、量子論、数学、哲学、言語学などの学問分野における先人たちのアウトプットの積み重ねにも、最大級の敬意と感謝を表したい。


最後に提案を残して、このコラムを締めようと思う。分かり切ったことではあるが、一般的に、「比較にならないほど~」というアウトプットは、私がこれまで述べてきた論理に基づくような使い方をするものではない。しかしながら、少しでも私の思考・判断・表現を参考にしてくれるならば、あなたが本当に心の奥底から大切だと思えるものにこそ、「比較にならないほど~」というアウトプットを用いてみてはいかがだろうか。


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