見出し画像

流れのない川のように

 転職して昨日で丁度1年経った。特に深く考えずに前の仕事を辞め、特に深く考えずに今の職場に就職し、特に深く考えずに仕事をしていたら、いつのまにか2度目の桜が散る季節になっていた。

 1年も仕事をしていると、職場でのポジションはある程度確立できたし、取り引き先のお客さんたちとも軽いジョークを交えられるようにもなり、微弱ながらも信頼関係のようなものは築けた。「なつきぐあい」で言うところの、やつあたりとおんがえしの丁度真ん中くらい。今はやや、やつあたり寄りかもしれない。私はいつでも最大威力のやつあたりができるぞ、という心持ちで生きている。私にポロックやポフィンでも食わせてくれる優秀なポケモンマスター(上司)でもいれば話は別だが…。

-

 仕事の途中で、宇治に寄った。時間も時間だったので、近くに車をとめて気晴らしに宇治川を見に行った。平日ということもあって人通りはそこまで多くなく、むしろ小さな謎の羽虫がそこら中に飛び交っていて不快だった。

 宇治川に架かる宇治橋の真ん中あたりで、川面を覗き込んでみた。風は吹いていなかったが、水面にはさざ波が立っている。思っていたよりも広い川幅が、向こうの山のほうまで続いている。

-

 ふと、頭の中に、昔なにかの本で見た短歌が思い出された。京都随一の風流な観光名所「宇治」を題材に詠んだ短歌や俳句は数多くあるのだろうが、その中でも印象に残っていた短歌があるのだ。はっきりと思い出せなかったので、その場で調べた。

「もののふの 八十(やそ)宇治川の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の ゆくへ知らずも」 ー柿本人麻呂

 そうだこれだ。万葉集のやつだ。網代木という言葉の響きと、ゆくへ知らずもという句末に、いつかの私は強い印象を受けたのだ。実を言うと、私は今日この日まで宇治に来たことが無く、今回がまさに初めての来訪だった。宇治という場所に対してぼんやりと抱いていたイメージが、今日この日、この光景を持って、少しだけ、明瞭になった気がした。

-

 宇治橋を西側に渡って、平等院へと続く通りをひとり歩いてみた。若いカップルやご高齢の方の集団、外国人観光客もチラホラ見かける。焼き菓子の香ばしい香りと、抹茶のまったりした匂い。お腹が空いているわけではなかったので、特に食指が動くこともなくその通りを歩いていった。

 河川敷に上って、ぼんやり川面を見ていた。なんか、一句詠みたくなるのもわかる。短歌とか俳句は、今でいうSNSでの発言感覚だったんだろうな。

 この波はどこからやって来て、どこに行くのだろう。飲み込めるほどの丸い孤独を、飲み干す。そうだ思い出した、まだ私は仕事の途中。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?