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昔見たひかりへ

あんな駅で降りることがあるんだろうか、車窓から見えたあれは何だったんだろうとか、そんな思いが心をよぎるときは、必ず後日そこへ行くことになるんです。こんなところには二度と来ないだろうなって思ったとしてもね。

森見登美彦 / 夜行 第三夜 津軽

 休日にぶらりと、日本のいろんなところへと足を延ばすのが趣味になった。でも子どもの頃の私はどちらかというと出不精なタチで、休みの日は家にこもってゲームとかをしているような人間だった。
 それがあるとき、何かの因果でアクティブな人間へと生まれ変わったような気がする。まるで雷が落ちたようだとしばしば形容される、そんなセンシティヴな出来事があったわけではない。私はそこまで感受性が高くないので、外的要因なんかで自分のこの感性を狂わされてたまるか、という強い気持ちがある。自分のこの感覚だけを頼りに、生きている。だから多分、私自身の中の何かが変わったのだと思う。

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 年を取ると感性が鈍り、外的要因による刺激も受け取りにくくなるという。せいぜいこの目で見えることなんて、インターネットが発達した現代では、散らばっている断片的な持ち主不明の電子情報のそれらとあまり変わらない。物事に対して感じる新鮮味の薄れは、一概に加齢のせいだけにはできないのだ。
 それにしても私たちは、"他人が作り出した風景"に心を奪われすぎているのだとも思う。

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 私はたぶん、心の奥底で、”昔見たひかり”を無意識に追いかけているのだと思う。その"ひかり"が何なのか、いつ、どこで見たのか、そしてなぜそのひかりに魅了されてしまっているのか。私にはまったくわからない。
 そのひかりの正体がなんだって別にいい。例えばそれは、車窓から一瞬覗いた山間の集落の光であったり、冬空の下で貴方が吸っているタバコの火であったり、どこかで読んだ本に載っていた架空の町の風景であったりするのかもしれない、でもそれは別になんでもいい。どれもがまさしくそのひかりであり、私はそのひかりに中てられて、いつまでも終わらない夢を見ている。
 母の姿を求めてよちよちと歩く幼子のように、私もまた手探りで母のような光を求めてさ迷い歩いている。いつか見た光と、同じ輝きを放つ光がきっとどこかにあるような気がしている。多分それは、本当に思いがけないところにあったりするんだけど。

 


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