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あの急行列車をもう一度

 少しでも職場に情けをかけると間に合わない、18時12分発の急行列車。この電車に乗るためには、定時とほぼ同時に職場を抜け出さなければならない。

 会社から最寄り駅まで、自転車で約8分を要する。だがこれはあくまで理論上の"最速の"時間。そこに不確定要素である信号機が3か所、さらに天候や通行量といった乱数が加わってくるので、駅までの所用時間は日々細かく変化するのだ。

 今日はすんでのところで、急行列車は行ってしまった。まだ切り替わっていない電光掲示板を息を切らしながら見つめる。あと1分早ければ…。

 原因は自分にある、実に明白に。

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「帰ろうか、もう帰ろうよ」と定時直後の私の脳内で天使と悪魔が話し合うのだ。手元の腕時計は確かに18:00を過ぎていて、私には"退社する権利"が与えられている。あとは行使するだけ、というところで『情』が邪魔をする。

 社内で一番下っ端の私は、少し気を遣いすぎる。「今なら間に合う、今ならまだ助かる、今ならまだやり直せるよ」が風に舞う。こうして無意味な引出しの開け閉めをしているうちに、間に合うであろうギリギリの時間を過ぎる。

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 人間とは愚かなもので、一度甘い蜜を吸ってしまうと、それより劣るものにどうしても満足できなくなる。それどころか、損をしたというマイナスな感情すら湧く。

 私の会社の定時時刻から考えて、乗ることが出来る理論上最速の電車が、冒頭の18時12分発の急行列車なのだ。

 私はこの電車に乗ったことがある。迂闊にも乗れてしまったからこそ、『あの素晴らしい急行列車をもう一度』と願わずにはいられない。いつかまた乗れる日が来ることを、明日にでも来ることを、心から祈る。

 情けは人のためならず、だ。


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