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ニセコ留学に行って感じたことを吐露しました

自分にとってかけがえのないものになった。英語を学ぶ環境に身を置くこと、親元を長い間離れること、それぞれの夢や志に向かって頑張っている人たちと一緒に過ごすことはどれもニセコでしか味わえないことだった。同時に自身のこれからやアイデンティティに対しても考える機会となったことも忘れてはいけない。

英語での2週間
 初めて生の英語を使った。英語学習を目的としてきたのだけれども、自身が思っていた学習とは全く異なっていた。英語で授業を受け、英語で遊び、英語でバーであった人と話す日々。これほどにも英語を「ただの言語」として感じ、また、もっと使えるようになりたいと思えた経験は今までになかった。
 自身の気持ちが伝わらない感情、相手の顔が曇っていく過程、英語が全然喋れないと分かった瞬間に興味を無くすバーにいる人たち。どれもクソほど悔しかった。英語でいろんな人とコミュニケーションを取りたい。英語で自分のことを自慢したい。そう思えた日々だった。
 英語しか話せない環境じゃないと成長しないと改めて感じた。もちろんインプットはとても大切なのだけれども、それと同時にアウトプットのサイクルも回さなければならないと思った。何事も中途半端がいけないとの話があるが2.3月で英語に苦労しないレベルまで到達したい。

私の周りにいた人たち
 ニセコ留学中に私の周りにいた人たちもまた、すごい人たちばかりで毎日が驚きだった。アメリカのバスケチームのコーチを目指してる人、13歳の中学生、好奇心旺盛で英語の学習を絶えず行っていた50歳の人、自ら英語の環境に長いこと身を置き、英語を流暢に喋る日本語ネイティブの人。それぞれのバックグラウンド、志が自分にとって刺激となった。まだまだ今のままじゃいけない。そう思えた。自己研鑽は終わることはないし、終わらせたくはない。英語に限らず夢に向かって頑張る姿がこんなにもかっこいいことを改めて知った。

自身のアイデンティティ
 これまた、自身の確立されたと思われていたアイデンティティがグラグラと揺らいだ期間だった。喋る言語が、育ってきた環境が、食べるものが違うだけ。大切なことは今何をやってるのか、あなたのチャームポイント、面白いところってどこですか、といったような点だった。私はこのような環境に心地よさを感じた。同時に辛さも感じた。
 自身が身を置いていた環境は常に自分が何者かを探し、歴史がどうとか、アイデンティティがどこかとか、頭の痛い日常だった。その部分が全部取っ払われた環境では、人生を楽しむこと、今何をやるか考えることがとても大切だった。そのような環境下で、自分はこんな人間なんだと、こんな面白いやつなんだと、こんな凄いことをやってるんだとシンプルに伝えることが楽しかったし、同時に難しかった。
 辛さも感じた。私が何者なのかをはっきりと伝えられないもどかしさ、自分は本当に小さな存在だと知った時の虚無感。私は在日朝鮮人であることで、他の人と違うんだと証明したかったのかもしれない。
 結論、心地よさも辛さも両方突き詰めるべきなんだろう。在日朝鮮人としての服を脱いだ裸の自分は、自分がこの世にいることを自信できるくらいのかっこいい人間ではなかった。もっと自分磨きが必要なんだろう。また、心地いい環境に身を置いてもまだ国籍を変えたいとは思えなかったし、在日朝鮮人じゃないとは言えなかった。かといって「結局北朝鮮人なの?韓国人なの?」の質問にはっきりと答えることはできなかった。変な人間だ。
 ただ一つはっきりと感じたのは過去を重視する傾向にある日本ではなく、今を見る傾向にある海外で暮らすことの大切さだ。人として何倍も何十倍も成長できそうだと感じた。

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