「文章を書く」ことは「書き継ぐ」ことである

さて、今日の分の読書、最低限のそれは終わった。それは労働でも仕事でも制作でもない。ただの繰り返しであり、ただの通いである。通勤でも通学でもなく、ただの通い。通い詰めているわけでもない。ただ単に通うことなのである。

今日のテーマは「書き継ぐこと」であった。皆さんは知らないと思うが。このことを今日はできるだけ軽く考えてみよう。私は重たいとか遅いとか、そういうことが嫌いなので。

私はいつからか「書き継ぐこと」をしなくなった。言い換えれば、その日のうちに、いや、そのときのうちに書き終わりそうなこと以外書かなくなった。このことを象徴的に考えるとすれば、私は「文章を書く」ことにおいて「書き終わる-書き継ぐ」という連関から「書き終わる-推敲する」の連関へと変化したと言えるだろう。

ところで「書き終わる」というのはどういう状態のことを指すのだろうか。と、考えたいのはやまやまだが、私はなんとなく、このことについて書くと「軽く考えてみよう」という宣言にそぐわないと思うので今回は遠慮しておこう。

私の象徴的な変化は「書き継ぐ」から「推敲する」に移行したと言える。いや、「移行した」と言えるほど変化しているとは思わない。というのも、私は「注釈」という身振りによって「書き継ぐ」と「推敲する」の中間地帯を確保しているように思われるからである。

私の文章を読んだことがある人はわかると思うが、私はやたらと「注釈」をつける。半ば言い訳のため、半ば豊かさのため、どのような理由をつけるかは難しいが「注釈」がたくさんある。その「注釈」は「書き終わる」ときの前についているものもあれば「推敲する」ときにつけるものもある。(余談だが、これからは()を「推敲する」まえの「注釈」として、[]を「推敲する」ときの「注釈」として考えていくことにしようと思う。いい取り決めだ。この取り決めを発見できてもう、この文章の価値は確実なものとなった。ので、ここからは逆に本文こそが余談であると言えるだろう。と、言っておこう。)これは言うなれば曖昧に「書き継ぐ」ことであると言えるだろう。このことによって「書き継ぐ」は明確さというグラデーションを持つことになる。しかも、このことを押し進めていくと、そもそも文章というのが文の連続体である限り、「書き継ぐ」は(最小の単位をどこに見るかは難しいがとりあえず)「文章を書く」ことが生じる時点で存在していることになる。

さて、私はちゃんと「書き終わる」とは何か、という問いを保留していた。にもかかわらず、やはり触れなくてはならなくなった。「書き終わる」というのは「書き継ぐ」ことをしないということなのである。しかし、これは「する/しない」のように私たちが勝手に決められることではなく常識が決めることである。もちろん、勝手にやめることはできる。し、勝手に続けることもできる。しかし、なんとなく「する/しない」は決まっているのであり、それを逸脱するにしても遵守するにしても、文章というものはそれによって規定されていると考えるしかないのである。いや、まあ、そんなことはないのかもしれないというか、ちゃんと言えていないのだが。

ここで「書き継ぐ」ことの強度を増したのを利用して、「文章を書く」こと自体をグラデーショナルに考えるとすると、「文章を書く」というのは「書き継ぐ」がどのように行われるか、ということで考えられるようになる。

ただ、この構想の力を私はよく知らない。だからとりあえず「常識」という語句を出してみたのだが、いまの力では、私の力ではそのことの意義がよく理解できない。それに「注釈する」ことと「書き継ぐ」ことの関係もよくわからない。「書き終わる」は「書く」ことが「完了」することだと思うが、それらと「注釈する」ことと「書き継ぐ」ことの関係もよくわからない。ただ、私は今日、本をちゃんと読んで気分がいい(もしかすると別の理由から気分が良いのかもしれないし、そもそも「気分が良い」だけで「本を(ちゃんと)読む/読まない」とかはただの理由づけのためだけの理由なのかもしれない。)ので今日はこれでいいと思っている。というか、これでいい。この文章の本質は上でも書いたように()と[]の関係という領域を開いたことにあり、これから実践が繰り返されたら私にも、非力な私にも力がつくだろうという希望的観測こそが重要なのである。ただ、アイデアとして面白いところはそれ以外にもあると思うので面白いと思ったところがある人は勝手に考えてくれたらいい。

では。さようなら。

たとふれば心は君に寄りながらわらはは西へでは左様なら

紀野恵

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