すべての「話」は「問答」であり、すべての「問答」は「自問自答」である

 自問自答というものがある。自分で問うて自分で答えるということである。ところで、私たちは実は問答という形でしか理解ができないのではないだろうか。というのも、どんな話、お話も結局「わざわざなんでそんな『お話』をするんですか?」という疑問を受け付けているからである。この疑問は言い換えれば、「その『お話』はどういう『問い』に『答える』ものなんですか?」ということだろう。このような疑問に私たちは大抵答えられるだろう。しかし、デッドロックは存在する。つまり、その疑問はもはや答えられない領域を示すことになる。
 ここで考えるというか、明確にするというか、そういうことをしたいのはこのような構造にある私たちの「お話」とうまく付き合う方法である。

 ところで、このような疑問のことを内田樹は「子どもの問い」と呼んでいる。そう考えることができる。

彼ら[レヴィナスとラカン:引用者]が量産する「邪悪なまでに難解なテクスト」が狙っているのは、「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することである。そして、その問いを発したまさにその瞬間に、読者は「テクストの意味」ではなく「書き手の欲望」のありかを尋ねる「追う者」のポジションに進んで身を置くことになる。
"テクストの語義を追う読みから、書き手の欲望を追う読みへのシフト"。
レヴィナスとラカンが「分かりにくく書くこと」で読者にさせようとしているのは、まさにそのことなのである。

『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』 27頁

 ここでは「テクスト」の話になっているが、別の箇所で内田はこのような構造が「話す」と「聞く」の関係でも生じると指摘している。しかし、ここでは「書く」と「読む」の関係が生じている(私がこの文章を書き、皆さんが読んでいる。)のでそれを基本として話を進めていきたい。(ただ、「話す-聞く」と「書く-読む」にはそれこそ断絶があるのだが。)
 ここで重要なのは、ここで内田が「難解」であることが「テクストの語義を追う読みから、書き手の欲望を追う読みへのシフト」を起こすと指摘していることである。しかし、ここで重要なのは「難解」であることがなにを引き起こすから「シフト」が起こるのかを考えることである。そして、この問いに端的に答えるとするならば、「難解」であることは「わざわざなんでそんな『お話』をするんですか?」という問いを惹起するから「シフト」を起こすと考えられる。言い換えれば、「難解」でなくても、「分かりにくく」なくてもこのような問いを惹起するなら「シフト」は起こると考えられる。
 しかし、私と内田では少しだけ考えていることが違う。内田は「子どもの問い」について次のような定式化をおこなっている。

"「子どもの問い」とは、それをひとたび発した後は、問いかけられている当の「謎」に決して追い付くことができないように構造化された問いのことである"。

『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』 26頁

 このことを私は上で「デッドロックは存在する」という言い方で言い当てようとしている。しかし、仮に「デッドロックは存在する」のならば既に「謎」は「追い付くことができない」ものではなくなっているのではないだろうか。たしかに「わざわざなんでそんな『お話』をするんですか?」という疑問には際限のなさ(ここには実はサディスト的無限とマゾヒスト的無限があり、その区別もとても重要だと思うのだが今日はとりあえず置いておこう。参考文献としてはドゥルーズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』や千葉雅也の『動きすぎてはいけない』、『ドゥルーズの21世紀』に入っている「儀礼・戦争機械・自閉症-ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」がおすすめである。)があるように思われる。そして、その際限のなさは「追い付くことができないように構造化された」ものであるだろう。しかし、私は冒頭で「わざわざなんでそんな『お話』をするんですか?」という疑問を「その『お話』はどういう『問い』に『答える』ものなんですか?」という疑問に言い換えている。この言い換えられた疑問には際限のなさが存在しないように思われる。もちろん、存在すると考えることもできるだろうが言い換える前と後とでは際限のなさは強度が違うだろう。
 なぜこのような違いを確認するのだろうか。それは「その『お話』はどういう『問い』に『答える』ものなんですか?」という疑問が「問い-答え」という形式によって全ての「お話」を統括しうることを示しているということを確認したいからである。これは言い換えれば、「追い付くことができないように構造化された問い」である「子どもの問い」を「問い-答え」の形式の「問い」の一つに格下げすることによって「追い付く」ことを可能にすることができるということである。もちろん、内田もこのような定式化の少し後にこのような形ではないにしても「格下げ」が起こることを指摘し、そのような「格下げ」に「最終的解決」を放棄することとしての「論争」というビジョンを提示している。しかし、私はここで際限のなさを別の形で使用したい。そのためにはこのような「格下げ」がなぜ起こりきらないのかを確認する必要があるだろう。起こり「切らない」のかを。
 内田はおそらく、そもそも「格下げ」が起こり切らないとは思っていないと思われる。思っていたとしても私よりは思っていないと思われる。なぜなら、「最終的解決」があり得ると信じるからこそそれを放棄することとしての「論争」というビジョンが提起できると考えられるからである。しかし、私はそもそも「最終的解決」などあり得ないと信じる。だからこそ「問い-答え」という形式によって全ての「お話」を統括しようとしているのである。しかし、それはまた「際限のなさ」に晒される。しかし、これは「子どもの問い」が、そしてそれが標榜する「欲望」がキリのないものだからではない。それもまた結局「問い-答え」の関係にあり、その関係によって統括することがなにであるかを理解しているからそれが「際限のなさ」を招き入れることはない。(これは別にそのように考えないことによってここでの議論ができているだけだからその前提を外すとすれば別に招き入れるとも言える。が、それなら別に議論する必要がない。議論というのはそういう梯子の外し方によって豊かになるものではない。)では、ここに「際限のなさ」を招き入れるのは何か。それが「自分」である。
 私は初っ端、このように書いている。

自問自答というものがある。自分で問うて自分で答えるということである。

 ここに「際限のなさ」を招き入れるのは「自分」の分裂である。「問う」ことをする「自分」と「答える」ことをする「自分」は分裂している。この分裂は「子どもの問い」においては「欲望」を知っている「大人」と「欲望」を知らない「子ども」という関係によって分裂ではないものとして統合されていた。そしてその統合が「問い-答え」の形式でここまで語られている。しかし、その統合は「問い」と「答え」が「-」で繋がる限りの統合である。それぞれがどれだけ無限に開かれようともしくは有限に閉じられたものになろうと繋がっていない限りそれらは無駄である。何を言っているのかがそもそもわからないからである。しかし、その繋がりを支えるのは最終的に「自分」であり、その「自分」は「問い」と「答え」に引き裂かれているのだから結局、「際限のなさ」はそれとして理解されない形で残っている。なぜ理解されないのかと言えば、それが理解できないならそもそも「お話」が、「問い-答え」の形式でできているという「お話」がわからないからである。
 このことを別の観点考えてみよう。「問い」を無限化しようと「答え」を無限化しようとその無限と無限の組み合わせから一つのペアを作ることが「お話」をすることであるという観点から考えてみよう。すると「際限のなさ」というのは「問い」の無限か、「答え」の無限か、どちらかによって支えられていることになるだろう。しかしそもそも「お話」がそれであるのはペアを作るからそうなるのであってそこから遡及して無限を言い当てることは「無限化」という表現が示すように「無限と化す」ことなのでありそのように「化す」ということは言い当てようとすることと同じことなのである。どちらかを固定したところでそれは変わらない。というか、どちらも無限であることを考えることは「遡及して無限を言い当てること」と「無限化」が同じであると考えることから不可能である。なぜなら、「遡及」は「問い」から「答え」か、「答え」から「問い」か、どちらかに向かってしか可能ではないからである。そう考えるとそもそも「問い」を固定して「答え」を無限化しようと、「答え」を固定して「問い」を無限化しようと「お話」は一意に定まる。なぜなら、そうしないと「お話」は理解できないからである。そこに仮に複数性を見るとすれば、それは「自分」の分裂を「一意に定まる」ということの「一意」を「自分」の分身のそれぞれに振り分けているからである。しかし、それは結局取りまとめることができる。振り分けているだけなのだから。
 もしかすると、急にハンドルを切られて車から落ちてしまった人がいるかもしれない。しかもかなりいると思う。しかし、いまの私にはこのようにしか書けない。もちろん、「自分」の分裂を「問い」の無限や「答え」の無限に振り分けることは立派な「自分」の分裂への対処法ではあるだろう。しかしそれはすでに「問い」と「答え」を接続するところに「自分」を据えたあとの出来事であり、そのように据えること自体はまったく考えられていない。しかし、このような事態になるのにも理由はある。それはこのように据えること自体は据えられたことを忘れることによってしか成り立たないからである。しかも忘れるための環境は「言語」や「習慣」など、多様に整えられているからである。ただ、私は別に「忘れているんだ!思い出すんだ!」とは思っていない。ただ単に無限性への実践の前にこのようなことを確認する必要があるのではないかと思うだけである。「問答」は全て「自問自答」であることやそのことによって起こること、それへの対処を批判する前にそうなる理由を明確にしておく必要があるのではないかと思うだけである。このことを踏まえて誰がどういうことをしようと、私には関係ない。私がしているのは哲学であり、その先は美学にでも文学にでも倫理学にでもしたらいい。興味がない。
 と、ちゃんと言えるためにはもう少しちゃんと書く必要がある。最後に一つ、「お話」と「話」は違う。し、私は少しいじって「お話」と言っていたがむしろ私が話していたのは「話」の方かもしれない。この「話」を「お説教」とか「意見」とか、そういうものと絡ませてみたいとも思うし、それによってわかりやすくもなると思うが、一つの文章に入れられる力の限界が来たので今日のところはこのあたりで終わりたい。
 私はこのような考察をある種最も実践的なものであると思っているのだが、今回それを示すことはほとんどできなかった。それについてだけ謝っておきたい。が、別に私が示す前にあなたが示してくれてもいい。私も明確にできた上で書いているわけではないからである。そしてもし同じようなことを考えている人、いた人がいればこの文章によってそこが賦活され、何らかのアイデアが形になるかもしれない。そうなることを願って投稿している。ところもある。

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