読書メモについて考え直す

 読書メモについて考えます。私は「考える」ということを基本的には能動的にというか、決断的にというか、そういうふうに行います。つまり、「考えるぞー」というふうに始めます。もちろん、強いショックのようなものがあって考え始めるときもあります。しかし、大抵はそうではありません。しかし、ここでの「考える」はそうではありません。つまり、ショックから始まっています。
 ここで書くような文章を少し前に書きました。タイトルは「メモをしながら本を読むという違和感」です。ここでもやはり同じことを考えます。が、どちらかと言うと「読む」ことに、さらには「書く」ということに、つまり「読み書き」にとって「読書メモ」とはどういうものなのかについて考えます。まずは私が与えられたショックを簡潔に確認しましょう。

 私は今日の朝、九時頃から十二時頃まで『ゼロからはじめるジャック・ラカン』(ちくま文庫)を読んでいました。その読書はいつにもなく捗りませんでした。なぜか。それは簡単に言えば、私が「精神分析」や「エディプス・コンプレクス」について知らなかったからです。聞いたことくらいはありましたが、そしてその概要はなんとなく知っていましたが、ほとんど知りませんでした。それゆえに、おそらくそれゆえに私はほとんど二段落に一段落をメモする勢いでメモしていました。そうするとやはり、三時間でも二〇頁も進みません。もしかしたら、めちゃくちゃ速いじゃんと思った人がいるかもしれません。それはおそらく、私が書き写すということをアプリで行なっているということを知らないからだと思います。アプリで書き写すことをしてもなお、こんなに進まないのです。
 もちろん、読書は進むということを目指す営みではありません。少なくとも私にとってはそうです。では、どういう営みかと言えば、やはり「賦活される」という営みでしょう。この「賦活」が何を目指すのかは重要な問題ですが、とりあえず「活力が与えられる」くらいの緩さで考えておきましょう。そのような営みとして捉えられた読書の中で「読書メモ」は後で読み返して「ああ、こんな話していたな」と思い出すためのものであると考えられます。つまり、再-賦活に向けた営みが「読書メモ」であることになります。
 しかし、私は思ったのです。これがショックそのものです。「読書メモが『読む』ことを『賦活』から遠ざけている」と。しかも、「未来のために『読書メモ』をしているとしてもそれがあろうとなかろうと大して『再-賦活』には影響がないのではないか」と。私はそう思い、愕然としました。私は「ここまで読むぞ」というところまで四五頁残った状態でそのように思いました。そして私は携帯を机に置き、ソファーに移動しました。なぜなら、携帯が近くにあったらメモアプリと書き写すアプリを開いて「読書メモ」を作ることに勤しんでしまうと思ったからです。そして寝転びながら「読む」ことを始めました。すると、なんとも楽しいのです。「どこをメモしようか。」と血眼になって余裕がない時には感じられない発想が飛んでくるのです。浮かんでくるのです。もちろん、そのぶん話はわかりませんが、読み直せばわかります。しかも、私はその時に思ったのです。この「賦活」こそ重要であって「読書メモ」が未来の私にもたらす「再-賦活」の「賦活」がわからなくなるというのは本末転倒ではないか、と。もちろん、メモした方が覚えているかもしれません。しかし、私はそうは思わなかったのです。これはおそらく「読む」こと、そして「書く」ことを違う仕方で捉え始めたからだと思います。

 昨日の夜、私は「書く」ことについて考えていました。「なぜ書くのか?私は。」と。別に答えは出ていませんが、その連続で今日も考えたのです。そして思ったのです。「もしかすると私は『引用する』ために『読書メモ』を作っているのかもしれない。」と。もちろん、このこと自体は別に良くも悪くもないことでしょうし、むしろ褒められることかもしれません。しかし、褒められるかどうかは二次的なことですし、私はおそらく「引用する」ことによって自分の威厳が高まると信じていたのです。いや、これはすごく意地悪かつ強調した言い方ですが、ある種の免罪符性を「引用する」ことに見出していたことは否定できないでしょう。ねえ。(ここで私は私を見ています。)
 もちろん、「引用する」というのは一つの「賦活」の形態です。しかし、それは「賦活」の基本的な単位ではありません。もちろん、「引用する」というのは直接引用に限られませんし、そんなことを言えば考えること自体が「引用する」によって支えられていることは確実ですが、そのような次元にない、つまり「直接引用」のために営まれる「読書メモ」はなんだか、本質的ではないと思ったのです。
 これは別に他人が「読書メモ」をすることを否定するものではありませんし、私もおそらくこれまでの形ではないにしても「読書メモ」をするというのは変わらないと思います。しかし、なんというか、ある種の強迫性をそれとして認めることができたのです。私は久しぶりに単純に「読む」ことをして、それが楽しくて、それが嬉しかったのです。簡単に言えば。

 これから考えるべきことは「読む」ことと「読書メモ」、そして「書く」をどのように考えるか、ということです。このことのヒントはおそらく「引用する」をもう少しちゃんと考えることから始まるでしょう。免罪符を批判した(とみなすこともできる)ルターに比せるとするならば、私は「読む」ということをちゃんとするという単純なことから始めるのでしょう。始めは携帯を遠ざけるとか、そういう形から入るしかありません。だって、「読書メモ」は習慣だったのですから。習慣だった、そう、習慣だったのです。その習慣から身を引き剥がし、その身が享楽していることを愛する。そういう転換、それが予感される。それは喜ばしいことであるように思われる。もちろん、今まで以上に適当に「読む」ことにはなると思います。ただ、別に何度も読めばいいし、経験を豊穣化することが本質的だと思う。もちろん今までもそう思っていたが、いつのまにか肩が凝っていたのである。肩甲骨剥がし、私の弟は柔道整復師になるらしい。私は昨日、剥がしてもらった。剥がれたかはわからない。弟はまだ学校に通っているからである。もしかしたら剥がれたのかもしれないし、もしかしたら剥がれたことにしているだけかもしれない。今日も剥がしてもらいたいなあ。

星座を繋ぎ合わせて星空ができるわけではない。星空を繋ぎ合わせて星座たちが現れるのである。

 不明

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