私の表現のセンスとエッセンス

 一つ、私は「驚いちゃったこと」がある。この書き方からあることを閃いた人はそのままにしてもらってもいいし、もしかするとそれとここが繋がるかもしれない。繋がってしまうかもしれない。しかし、それは本質的なことではない。ただ契機的なだけである。
 この文章が生まれた理由は三つある。一つ目の理由は私が『現代思想』(特集 ビッグ・クエスチョン-大いなる探究の現在地)に入っている永井均の「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?-夢のような何かであるしかないこの現実について」という文章を読んだからである。特に最後のあたりの「皆さま方が夢見の主体である世界は、私のこの世界から(重なって存在しているにもかかわらず)なんと遠いことか。そして、そうだとすれば、この現実は(奇妙な言い方になるが)夢よりももっと夢のようなあり方をしているといえるように思う」という記述を読んだからである。それぞれの理由の関係性については後に軽くまとめるので、とりあえずここでは三つの理由を手ばやく確認しよう。二つ目の理由はある企画に参加(?)と言えばよいのか、それをしたからである。隠すつもりはないし、見つけてくれたらそっとしておいてくれたら嬉しいのだが、とりあえずその企画によってより綿密に思い出されたのである。何が?それは三つ目の理由に関係する。三つ目の理由は後輩の「もしかすると、私の見えている赤は○○さん(著者)の見えている青かもしれないじゃないですか!そうだとすると、みんな色々な世界が見えているじゃないですか!他の世界、見てみたいですよね!」という発言にある。特に最後の「他の世界、見てみたいですよね!」という発言にある。この発言がより綿密に思い出されたのである。
 この三つの理由の関係性は一つ目の理由と三つ目の理由の近さを二つ目の理由が強調してくれたという関係性であると言える。言い換えれば、永井均の一種の主体=他者論と後輩の一種の独我論=実在論(この書き方は前期ウィトゲンシュタインの独我論に由来する)とが響き合うのを拡声器に乗せてくれた企画があったのである。
 さて、特に長く書く気もないので、私は後輩の素晴らしさだけを書く。後輩には「用語を出すことでわかった気になる○○さん(著者)はずるいし、少し嫌いです。」と言われたが、用語でまとめておくと、後輩の発言の一文目はアポリアもしくは逆転アポリアの問題圏にあり、二文目は独我論の伝達の問題圏にある。それぞれには有効な批判があると思われるし、それもある程度は後輩と話したのであるが、ここで考えたいのは「他の世界、見てみたいですよね!」という発言である。いや、別に考えたいわけではない。それを味わいたいのである。
 後輩について少しだけ書こう。後輩は部活動の後輩で、おそらくだが、かなり哲学的センスがある。哲学的センスが何であるか、私に語る資格は全然ないし、語りたいとも思わないが、とにかく哲学的センスがある。しかも、ドゥルーズ的なセンスというよりはウィトゲンシュタイン、特に後期ウィトゲンシュタイン的なセンスがある。私がする哲学に関係しそうな話をよく聞いてくれる。他の話も聞いてくれるが。ここには直接関係ないが、おそらく、世界観というか、それはどちらかと言えばドゥルーズに近いと思われる。ただ、バディウが「存在論的ファシズム」の可能性を指摘した傾向はあるように思われる。あまり知らないが、華厳経やアナトール・フランスの世界観にも近いところがあるように思われる。その世界観を一言で言えば「もし宇宙が突如としてはしばみの実ほどの小さなものになったとしても、すべての物がそれに比例して小さくなったとしたら、われわれは何らその変化に気づくことはできないであろう」(『エピクロスの園』19頁)という世界観である。この話すなわち世界観に関する話はあまりしたことがない。というよりも話していると勝手にあちらが納得しているので納得できていないだけであるが。とにかく、哲学的なセンスがある人なのである。そして、そんなことよりもおそらく重要なのは、人に対する愛が深いということである。人間というよりも人に対する愛が深い。なんとなく、最近はそれが翳り由来のものなのかもしれないと思って、いろいろなことを思ったが、とりあえずそれは良いだろう。とにかく、彼女は私=世界という議論、私の中にも結構強くあるそれを美しく見せてくれるのである。
 これと関係する私の経験というか体験というか、それはおそらく、優れた絵画を見た後の散歩にあるだろう。そこでは世界がまるで違うものとして現れる。そして私は思う。ここでの「違うものとして現れる」の「違う」にはあまりにも薄弱な根拠しかない。私が絵を描いていたら別かもしれないが、そこにも薄弱な署名しかない。それを肯定するような、しかし(も)その肯定の、夢-性を教えてくれるような、そんな発言であると私には思われたのである。「他の世界、見てみたいですよね!」という発言はそういうある種の世界の寂しさというか、そういうものを感じさせるものだったのである。
 まあ、その発言を聞いた時、私は哲学に夢中でその素晴らしさを感じてはいなかった。だから、一つ目の理由と二つ目の理由が幸運にも繋がる必要があったのである。
 ここまでではまるで素晴らしさを語ったようには思われない。しかし、ここにはたくさんのものが吊るされうるだろう。フックはたくさんあり、そこにセリーをぶら下げて、それが風でしゃしゅりしゃしゅりと鳴るさまを、私は美しく描いてみたいと思う。もしかすると、私はこれまでそれをしてきたのかもしれない。し、そうではないかもしれない。それはよくわからないが、とにかく素晴らしいことに出会い、それを「素敵だ」と言えることは私の人生の、確実な目的である。そして、もしかするとそれだけが確実な目的であり、私の人生かもしれない。筆が滑りすぎた、かもしれない。
 まったく関係ない(なんてことがあり得るかはよくわからない)が、熊野純彦がレヴィナスの「逃走論」における「逃走」について説明している一節を以てここまでの議論を閉じよう。色々なことが思いつくが、私はとりあえず、目の前のプリンとティラミス、そしてカプチーノを飲もう。

ロカンタンはマロニエの根をまえに、吐き気をおぼえる。その無意味さに、たんに在ることの猥雑さに、である(サルトルの小説『嘔吐』一九三八年刊)。レヴィナスが吐き気を感じるのは、私が<私>でしかないことにたいしてである。繰りかえし吐き気がこみ上げ、みずからの内容物を嘔吐するとき、吐き気はただじぶんの内側から到来し、私はひたすらじぶんがじぶんであること、<私>が私の存在に貼り合わされていることに嘔吐するほかはない。私は絶望的にみずからの存在を拒否し、しかもその拒否が成就することはない。
『レヴィナス入門』44頁

 ここまでの議論はおそらく、この揺れをより強調するだろう。私が本屋さん、何階かでくらくらしたことを思い出しておこう。これだけは本当にゆるく考えておきたい。しっかりとゆるく。

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