真理

私は目的を付与されるのを嫌う。しかし、私はなぜそれが嫌いなのだろうか。それを考えてみよう。

言い換えれば、目的を付与されること自体が嫌いなのか、ある特定の目的を付与されるのが嫌いなのか、ある特定の行動に目的を付与されるのが嫌いなのか、それを考えてみよう。

なんとなく私が感じているのは、私は他人に目的を付与されるのが嫌いだということである。おそらく私は他人に「あなたはXのためにAしたのですね」と言われるのが嫌いなのである。では、未来の私に目的を付与されるのはどうだろう。それはまだマシだが、倫理的にあまりしたくない。言い換えれば、未来の私は私のしたことに対して目的を付与することが許されてはいるが、それをすることを私は望ましいとは思わないのである。これが私の基本的な態度だと私は思う。

これを基本的な態度だとすると、私は上に挙げた三つの問いにどのように答えることになるのだろうか。まず、「目的を付与されること自体が嫌いなのか」という問いに対しては「その通りだ」と答えることになるだろう。例外があるような気もするし、その例外が重要なのだろうが、とりあえずはそのように答えられる。次に「ある特定の目的を付与されるのが嫌いなのか」という問いに対しては「そういうわけではない」と答えることになるだろう。例えば、私は新自由主義的な目的を付与されることやマッチョイズム的な目的を付与されることを嫌うのは嫌うのだが、私がそれを付与するなら別にいいと思うのである。おそらく。まあ、私はそれらの目的を付与しないと思うが。これはおそらく二次的な問題である。最後に「ある特定の行動に目的を付与されるのが嫌いなのか」に対しては「そういうわけではない」と答えることになるだろう。これは上で例に出した新自由主義やマッチョイズムの問題にも近いが、私の全行動のなかから主題にする行動を選ぶことについても私が選ぶならまあ、まあいいか、くらいに思っている。おそらく。これも二次的な問題であると考えられる。

ここまでの議論をまとめると、私は「目的を付与される」のが嫌いだが、その嫌いの強度としては「私ではなく他人に」が最も嫌いであり、「特定の目的を」と「特定の行動に」はその次に嫌いであると考えられる。

だから、私は新自由主義批判やマッチョイズム批判に対しては積極的には加勢しない。それが最も重要な問題ではないと考えているからである。しかし、問題ではないと考えているわけではない。それは私にとっては最も重要な問題ではないだけである。

ここから考えたいのはそもそも目的は何のために必要なのか?ということである。私は目的を理解のために必要であると考えている。そして、理解は安全のために必要であると考えている。具体的に考えてみよう。

ある人の行動を理解するためにはその人の行動原理を知ることが重要である。それを知ることができれば、その人の行動のすべてとは言わないまでもある程度は理解できるようになる。そして、私たちがある人の行動を理解したいのはその人の行動が私たちに危害を及ぼさないか心配であるからである。理解ができればある程度は心配ではなくなる。これが私たちがわざわざある人の行動原理を探る理由であるだろう。少なくとも私はそう思う。

私は「目的を付与される」。安全のために。理解のために。ここで安全と理解のあいだに楔を打ち込んでみよう。ここでしたいのは理解には安全に資するものと欲望に資するものがあることを明確にすることである。

欲望に資する理解とは何か。それは私たちがある程度は同じ目的に向かって生きていることを確認するような理解である。それが例えば新自由主義的な理解でありマッチョイズム的な理解である。もう少し実践的に考えるなら、例えば承認欲求を用いた理解である。私たちはある人の行動原理を私たちを害するものではないことに満足せず、私たちと同じシステムで動くものであることを求める。そこに使われるのが例えば承認欲求なのである。あの人は承認されたいからあの行動をしたんだ。ある人の行動をこのように理解すれば、私たちはその人を仲間だと思える。安全に資する理解というのはあの人は仲間でないわけではないという理解だが、欲望に資する理解というのはある人は仲間であるという理解である。新自由主義やマッチョイズムは承認欲求というシステムがより大きなシステムでどのように駆動しているかを考えるための枠組みである。私たちは承認欲求を持ち、新自由主義的にマッチョイズム的に動く人を仲間だと思うのである。

ここで「そんなことはない。私は他人をそのようには見ていない。」と考える人がいるだろう。しかし、他人の行動についてあれこれ考えるとき、とりあえずこのように考えることが私たちにはほとんど習慣化されているだろう。私はその習慣を上でも書いたように積極的に批判することはないが、これが習慣化していることは事実であると思う。というのも、これに従うか、抗うか、それは別として、従ったり抗ったりするものはいつもそれらであることは事実であると思うからである。私はそういう意味で習慣化と言っている。何度も言うが、私はそれを批判しているわけではない。とりあえずは。

これは極めて私的な問題かもしれないが、欲望に資する理解を新自由主義的だとか、マッチョイズム的だとか、他人は全員そのように考えているだろうということを私は批判したい。これは自己批判である。しかし、だからといって安全に資する理解だけを理解として認めようとしているわけでもない。そもそも、一応二つに分けただけで二つの理解は実際はモザイク状であるだろう。もちろん、承認欲求だけを原理にすること、新自由主義だけを、マッチョイズムだけを原理にすること、それは端的につまらないから嫌いなのだが、それと同じくらい他人はどうせそのようにしか理解していないと考えることも嫌いなのである。私は。

そもそも、このような区別、二つの理解の区別が行われなければならないのはなぜなのだろうか。その理由は、正直に言うなら、私には「わざわざある人の行動原理を探る理由」がよくわからないからである。これは別に私はこんなことをしていないということではなく、私もこれをしているがこれはなぜなのかがわからないからである。しかし、私はこれをしなくてもいいと言っているわけではない。これをするにしてもやり方が考えられるべきであると思っているのである。まあ、これがなされることが不思議であることには変わりがないのだが。

ここまで、私が真に嫌っていることは問題になっていない。その問題を避けて、いや、一旦保留してここまでの議論は展開されてきた。さらに保留することになるが、私がなぜ「未来の私は私のしたことに対して目的を付与することが許されてはいるが、それをすることを私は望ましいとは思わない」のかを考えてみよう。

端的に言えば、未来の私は他人だからである。ただ、これでは保留した意味がない。なのでもう少しだけ遠回りして言おう。「未来の私は私のしたことに対して目的を付与することが許されてはいるが、それをすることを私は望ましいとは思わない」のはそれが「救い」になってしまうからである。

そもそも、なぜ私は過去の私のしたことに対して目的を付与するのだろうか。これは安全や欲望からは理解できない。いや、理解できないことはないが、それらによって理解するのが困難である。だからここで「救い」が出てくるのである。わざわざ過去の私のしたことに対して目的を付与するのは過去の私を救うためなのではないか、と私は思うのである。しかし、それは望ましくない。この望ましくなさはおそらく未来の私がメシアになってしまうことの望ましくなさだろう。言い換えれば、いまここでの享楽を失うことの望ましくなさだろう。実は新自由主義やマッチョイズム、承認欲求の望ましくなさはここから来ている。少なくとも私の場合は。

私が唯一、大して嫌ではない、いやむしろ好ましいと思う「目的を付与される」ことは未来の私が過去の私にそのときには知られていなかった「目的を付与する」ことである。これは言い換えれば、未来の私が過去の私をそれ自体として肯定するために「目的を付与する」ことは好ましいと思うのである。いや、語法を切り替えなくてはならない。

目的はそもそも未来に設定される。しかもそれはいまここから見た未来に設定される。私はそれが望ましくないと思っているのである。いまここではないところにいまここの意味がある。私はそれが望ましくないと思っているのである。いや、私はおそらくそれが嫌いなのである。他人はどうかは知らないが、私はそれが嫌いなのである。「目的を付与する」というのはまるで過去の私がそこで享楽していなかったかのように考えることを強いる。しかし、私はその強制が嫌いなのである。私が行いたいのはそこで享楽したことを快楽として意味づけることである。これは「目的を付与する」ことではない。すでに付与されている目的が何であるかを描き出すことである。いや、そこに内在する目的を掴み取ることである。外在する目的を付与するのではなく内在する目的を掴み取る。過去の私からすれば未来の私は外にいる。しかし、その外にいる未来の私もまた掴み取ることを享楽しなくてはならない。私はそう思っているのである。

もし、私たちが過去の私と未来の私を接続する習慣を持っていなければ、わざわざこのようなことをしなくてもいい。わざわざこのようなことをする意味がない。しかし、私たちは現に接続する習慣を持っている。そしてそれは私たちの社会を構成する第一の原理となっている。「個人」という概念はその典型的な現れである。だから私は仕方なく上に書いたような戦略を取らなくてはならない。これは正直、「ある特定の行動にある特定の目的を付与される」ことの問題とは次元が違う。私はそう思う。私が言いたいのはそういうことである。

もしかすると、勘違いする人がいるかもしれない。私は高踏的であると。しかし、それは半分間違いである。というか、踏み込みが足りない。私はなぜわざわざ高踏的になっているのか。それをここでは考えなくてはならないのだ。もし、それを承認欲求とか、新自由主義とか、マッチョイズムとか、そういうことで考えるのならば、ここまで書いてきたことがまったく理解できていない。別に私はそのことを批判しないし、別に私が神秘的であってもいい。私はこのような問題を広めたいと思わないし、私はこのような態度を広めたいと思わない。私はこうであると言っておきたいだけであり、わざわざ丁寧に整理したのは私が私を勘違いしないためである。それをわざわざ書いているのはもしかすると未来の私が勘違いするかもしれないからである。そうでなければ、こんな、書いても誤解される可能性の高いことは書かない。私は未来の私がちゃんと読めると信じている。しかし、未来の私が間違えないとは信じられない。だからこそ丁寧に書くのである。ここまで。

私は批判を待ってもいないし、拒んでもいない。もしかしたら私は変わるかもしれない。ここで書いたことが間違いであると未来の私は言うかもしれない。それでもいい。その場合に徹底的に批判できるように私は丁寧に書いたつもりである。私は一つ踏み込むことができたと信じている。明日にそのようなことが信用に足るか否かはわかる。いや、未来永劫信用に足るか否かは問われる。しかし、私にとっては間違いないと思われることを私は書いた。そのように思う。これは私が書いたことが間違っていないという自信ではない。ただ単に私はこう思っているというだけである。それを充分に、そして明確に描き出せた。いや、掴めた。私にはそのリアリティがある。別にこのリアリティが感じられない人が優れていないわけではない。劣っているわけではない。ただ単にこれは真理なのである。

まあ、当分はここに書かれたことをより綿密にすることが課題だろう。おそらく。まあ、明日は全然違う私になっているかもしれない。私はそれを信じている。

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