フェミニズムに微笑む

私はフェミニズムを面白いものだと思ってしまう。なんというか、人類学を読むかのように読んでしまう。ただ、それは別にフェミニズムに限ったことではない。ただ、フェミニズムに特有の面白さがあるのである。人類学がエキゾチックだとすると、フェミニズムはファンタスティックである。

なんというか、ぜんぜんうまく言えないのだが、私は「男」であるから、しかしその「男」は「女」と対比されるからこそ存在するのであるから、さらに私はその対比がよくわからないから、言うなれば二重の安心感というか、そういうものがあるのである。

なんというかなあ、私は私の問題意識からしか問題を感じられない。いや、精確に言うとすれば、あらゆる問題を感じられないことが「問題意識」を作るのである。作らせるのである。もちろん、だからと言って変容を拒むことはよくないことだろう。(この「よくない」は道徳的に良くないとか倫理的に良くないとかそういうことではないと私は思っているが。)ただ、この「問題意識」の限界性を許容することなしに問題が存在できるとは思えないのである。

なんというかなあ、マイノリティとか言っているのを見ると「すべての人はマイノリティじゃん」とか「でもマイノリティもレプリゼントされるじゃん」とか、そんなことを思ってしまう。このことによって議論を反故にするのはつまらないことだが、しかしこのことを考えないことは少なくとも私にとってはもっとつまらないことなのである。

あと、最も根本的に思っているのは「そういうことにしないと話ができないじゃん」という次元に向かっていくことは何が楽しいのか?ということである。これはフェミニズムに限った話じゃないが。

さっきから「フェミニズムに限った話じゃない」ことばかり言い続けているが、それは私がフェミニズムを全然知らないからである。いま勉強している。『フェミニズム』(岩波現代文庫)は読んだ。いまは『フェミニスト現象学入門』(ナカニシヤ出版)を読んでいる。第一章。「フェミニスト現象学のはじまり」を読んでいる。私がこんなものを書いているのはとりあえず先入観を羅列しておくことはフェミニズムに向けて自らを活性化するという意味で重要だと思ったから、なのかもしれない。

「バトラーによれば、ジェンダー化されていない純粋な主体を想定することは哲学的に誤りである。」(『フェミニスト現象学入門』7頁)というところを読んでバトラーを読みたいと思った。『バトラー入門』(ちくま新書)はブクログの「読みたい本」に登録していた気がする。

具体的に見ていないからこんなことを言っても仕方ないのかもしれないが、「私の視点」や「私の経験」はすでにそれ自体を裏切っていると私は思う。「反省以前の経験を私の視点から記述するのと同時に、私の経験を反省して突き詰めて考える、この相反する手綱の両方を離さないようにすることをフェミニスト現象学は目指している。」(『フェミニスト現象学入門』9頁)を読んでそう思った。

具体的なものを読んでいないからわからないが、私は「私の視点」や「私の経験」がそれとなることがどのようなことなのか、について問題意識を共有しているという感じを持った。一章を読む限り。今日は眠たいからもう読まないが、とりあえずそういう感じを持った。

あと、「私の経験」からあなたの経験、私たちの経験に拡張していく、そういう希望をフェミニズムは持っているらしいが、それがどういう希望なのか、私にはわからない。ただ、具体的な経験を描き出して、それが拡張していく快楽はよくわかる気がする。志賀直哉の随筆を読んでいるとき、私はそういう快楽をよく感じる。ただ、視点や経験の記述は文学ではない、らしい(私は『臨床とことば』(朝日文庫)でこれを学んだ。気がする。)のでそれについても念頭に置いておきたい。

これくらいだろうか。私は気分屋で、今日もたまたま読んだだけであるから、勉強し続けられるかはわからない。が、面白そうな予感もあるっちゃあるのである程度積極的に読んでいきたい。

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