『狂い』

表現者としての強さを見せてしんぜよう。

今日はなぜか、心が弱っている。しかし、私は表現者なのでこれも利用して表現をするのだ。表現といえば散歩だ。なので散歩に来た。財布と携帯、タバコとライターを持って。

ある住宅街のある十字路である男が大きなくしゃみをした。くしゃみの音は家々を反響し、夜の奥深くから聞こえてくるかのようだった。

歩いて来た。この住宅街のなかにある唯一の十字路に。唯一信号のある十字路に。

大きい唸り声のような音がした。遠くで何かが鳴いている。誰かが歩いている。もうかなり夜は深い。日を越してはいないが。

風は孔だらけの山々を鳴らす。誰かはちゃきんちゃきん、ちゃきんちゃきん、と歩いて来る。珍しく十字路に車が止まり、くるくるくるくる待っている。もう一台来た。

ここまででもう、二人の友達が居た。くしゃみはおさまった。猫アレルギーなのかもしれない。最近家に猫が来た。ただ、くしゃみが出ない日もあるからよくわからない。アレルギーというのは一種の安定である。しかし私の猫アレルギー、と思われるものは安定していない。ちなみに二人の友達というのはエッセイストである宮﨑智之と哲学者である中島隆博である。「弱くある贅沢」と「地らい」、『平熱のまま、この世界で熱狂したい』と『荘子の哲学』、これ以上情報を増やすのはやめよう。

さて、何かをしながら何かをするのはやめよう。階段を降りて来る人はやけに遅い足取りである。金属かそれに近い何かが鳴っている。ちゃきんちゃきん、ちゃきんちゃきん、と鳴っている。姿が見えたが、信号機からは離れていった。どこか、闇へ消えていった。

何かをしながら何かをするのはやめよう。たとえ実践に複数の能力が必要だとしても、それぞれの能力に典型的な実践性があるとしても、何かをしながら何かをするのはやめよう。ただ単にタバコを吸い、ただ単に文章を書こう。表現をしよう。

一本。集中して一本吸おう。タバコを。電灯に虫がそれほど居ないけれど、この住宅街には緑がある。葉が光る。あのことを思い出す。それは幸せである。ノスタルジーである。しかしそれは幸せである。それは幸せ自体ではない。私はそう思うが幸せであることに変わりはない。大きな車がUターンした。低音がどぅうんどぅうん鳴っている。知らないヒップホップだ。

吸っている途中に書き始めてしまった。バスから降りて来た人たちはみんな、「『あと少しで家だ』とか思ってませんよ」みたいな顔をしている。おそらくあと少しで家だと思うのだが。住宅街のこの時間のバスから降りて来た人なんて。

いくつか思ったことはあり、もうほとんど忘れてしまった。書いたせいだ。忘れてしまった。

強さというのは忘れられるということである。忘れていることすら忘れている。そういうことである。いつまでも忘れられない人は弱いのである。表現者としての強さも結局、表現しているあいだはまるで思われることがすべて表現に資すると信じることに過ぎないのである。しかし、それは素敵なことではないか。これは忘却のための祝詞であり、忘却できないことの証左である。

全部使い切って差し上げよう。ちなみに一つ前の文章はいくつか思ったことのうちの一つである。なぜか思い出した。

Love or Moneyの話をしていた。くら寿司で。六人いた。ある人が言った。「デヴィ夫人が言ってたけどお金があれば尊敬が生まれて、尊敬があれば愛が生まれるらしいよ。」と。私は言った。「三段論法じゃん。」と。続けて私は言った。「お金と尊敬、尊敬と愛、それは尊敬で繋がれているけれど、お金と対比される尊敬と

ここである人は言った。デヴィ夫人の話をしたある人だ。「たしかに。違う。」と。私は思った。この違いがわかる人とわからない人、そしてさして興味がない人はどう違うのだろうか。少なくとも他の二人は興味がない顔を、多くともその他の二人はわからない顔をしていた。気がする。

私は「普通にLove。」と戯けて言った。ある人、デヴィ夫人の話をした人ではない人は「私もそうです。私たち『普通にLove組』!」と言った。真剣に。私はその人、Cさんが好きである。

私は好きな人がたくさんいる。好きと言ってもたくさんある。恋愛的かそうでないか、そんな大雑把な区分では捉えられないくらいたくさんある。私はそれぞれ好きな人と「好き」を新しく作る。いや、作っているのは私なのかもしれないが、「好き」を新しく作る。いや、「好き」を新しく作ることができたと思った人、そして勘違いだが一緒に作れたと思った人、その人が「好きな人」なのかもしれない。

遠くで甲高い、バイクのマフラー音がする。透き通った濁った音だ。うるさくないのだろうか。本人は。その音はいつも遠くから聞こえる。さすがに住宅街でブーンとしていたら警察が来てしまうのだろうか。彼らもここなら警察をわざわざ呼ばないだろうというところでブーンとしているのだろうか。大変なことだ。まあ、これは予想でしかなく、普通に警察には通報されているかもしれないし、別の遠くの住宅街でブーンと鳴らしているかもしれない。

私は一日のほとんどをイヤホンをつけて暮らしている。いや、そんなことがない日もあるが、周りで私が予想しないような音、音圧を感じる可能性がある場合は許される限り必ずしている。ちなみにいまはしていない。ブーンが聞こえているように。

ある人がASDに関する文章を読んでいた。論文とかではなく教科書的な文章だった。読ませてもらった。そこに書かれていた諸特性を私は私に感じた。しかし、私は「え、俺ASD?」みたいには言わなかった。しかし、それを言わなかったのはなんらかの意志からではなく、何かに制限されて言わなかったというのが正しい。まあ、制限も意志の一つの形態だと言われればそれまでだが。

私はこのように「一つの形態だと言われればそれまで」と頻繁に言う。これは少しもったいないというか、逃げなのではないか。そこに留まる勇気がないから「一つの形態だと言われればそれまで」と言って中途半端な形態論に逃げ込んでいるのではないか。

それはそうかもしれない。しかし、私はそのことを弾糾しない。

綺麗ごとばっかか葉っぱ
なんだっけ?一秒後に忘れる
思い出すのもやめた結果楽ならそれでいい
したくないことはしたくない
『道-TAO-』

私はこの歌詞に救われたところがある。いや、救われたというよりもこの歌詞がよく聞こえたことがある。だから思い出しているのだ。引用しているのだ。「したくないことはしたくない」というのは「したくないことはしたくない」ということが「したくないこと」ではないということなのだろうか。言い換えれば、それはしたいことなのだろうか。私はここに少しだけこの歌詞への反抗心がある。心を見つける。そこで。

やたらと静かだ。もう一時間くらい外にいる。一時間くらい散歩をしている、と言わないのは割と座っているからである。ただ、誰か、例えば好きな人に「何をしていたの?」と聞かれたらきっと「散歩してた。一時間くらい。」と言うだろう。小さな小さな嘘。自己呈示。

私がタバコを吸っていることを知っている人は限られている。家族と毎年花火だけをする五人組。彼ら彼女らくらいしか知らない。これも一種の自己呈示、嘘である。思えば彼ら彼女らは最も生活を共にしている人たちと最も生活を共にしていない人たちである。距離感はグラデーションではないのかもしれない。「好きの反対は嫌いではなく無関心」の一つの好例かもしれない。

「彼ら彼女ら」といちいち書くのはめんどくさい。ただ、だからと言ってそれを「その人たち」とか言うのはなんだか違う。だから仕方なく、多少重たくてもそうやって言う。

ついでに話すが、私は私を男性的であるよりはむしろ女性的であると思っている。ただ、私は女性ではないのでこのような態度はドゥルーズが『意味の論理学』で言っているような中途半端であることの罪悪感に似た罪悪感を感じさせる。アディクションの議論にも同じような罪悪感を感じる。木村敏が示す症例にも。これはわかったふりをしてはいけないという道徳ではない。倫理である。しかし、私はうまくそれを表現できない。やけに盛るか、やけに諦めるか、どっちかにしかなれない。

表現者になると息巻いていたが、今日は落ち着いてる。この落ち着きは死に似ていて、私の好きな人、恋人は私に「元気だったら嬉しい。」と元気がなさそうに言ってくれたから少し申し訳ない。彼女は私に「ポジティブの塊みたいなところ。」と言ってくれた。「俺のどこが好き!?ねえ!ねえ!!」と言ったら仕方なさそうに言ってくれた。それによって勝手に私は申し訳なく思っている。彼女はそれを言うのを渋っていたが、こういうことがあるからなのかもしれない。他にもあるけどね、みたいなことを言った上で言ってくれたこと、仕方なく言うけれどね、みたいな顔で言ってくれたこと。あれは優しさである。私はそれを哲学的には知っていたのだが、哲学的に知っていただけだった。

日をまわった。表現し尽くしてやる、と半ば世界の美しさに嫉妬したような気概を持っていたが、ここまでしてきたのは過去を軽く振り返ること、ただそれだけである。いや、冒頭はまだ嫉妬深かったが、私は嫉妬深いのが似合わない。いや、嫉妬深くあれない。これは弱さである。強さに見せかけることはいくらでもできるが、この世界で生きていく上では明らかに弱さである。だからと言ってなくすことはできない。「似合わない」とか言って誤魔化すことしかできない。ただ、私は私のしてきたこと、彼女が「ポジティブの塊にみたいなところ」と言ったところを弱さを隠すという弱さであるとは思わない。それはただの私であるから。

まるでまとめに入ったかのような感じを持ったかもしれない。あなたは。しかし別にまだ帰るつもりはない。帰りたくない。まだ。いや、そこまで強い感情ではないが、まだ外に居たい。

友達。哲学する友達。私にはそういう友達が居ない。しかし、それを欠如だと思ったことはない。本もあるし、友達と話すときはやっぱり僕と言えども配慮はする。この「僕と言えども」も自己呈示である。

ここまで「自己呈示」という用語を使ってきたが、これはゴフマンの『日常生活における自己呈示』という邦題から借りてきたものである。まあ、私はこの本を読んでいないのだが。

最近、私は憑依芸をあまりしていない気がする。いや、その芸のために生活していない気がする。同じ哲学者の本ばかり読んだり、同じ詩人の本ばかり読んだり、同じ画家の絵ばかり見たり、同じ人とばかり会ったり、そういうことをしていない。無意識の模倣を用いて世界を新しくすること、それをしていない。なぜなのだろうか。

そうならないように生活している気さえする。本はバランスよく読み、バランスよく絵を見、バランスよく人と会い、この「バランスよく」自体が目的になっている気がする。もちろん、食欲旺盛に受容し、ある程度は表現に活かしている。けれどそれは都市制作に似ていて、旅行にも地殻変動にも似ていない。私は旅行に行く私、地殻変動する時間、それを恐れているかのようである。ただ、「恐れている」のではなく「恐れているかのようである」だけである。これに偽りはない。

わざわざ「偽りはない」と言わなくてはならないような状況。問われているのだ。そのとき私は。「あなたはそれを言って自分を守りたいだけなのではないですか?」と。しかし、考えてみれば私たちの発言はいつも「問われている」ことにすることによってしか理解できない。これは私の洞察であり、私の真理である。私はこの真理に囚われていて、洞察であると言って憚らないことしかできない。それは私の偏りだが、それは偏りとすら言えないのだ。私からは。

哲学に特有の学習観、時間、緩やかなそれらを私は肯定しようとする。しかし、私が緩やかなだけなのかもしれない。遅いことを緩やかであると言っているだけなのかもしれない。いや、それを言おうと君は思っていない。「遅いことを緩やかであると言っているだけなのかもしれない。」などと君は言おうとしていない。「それは遅いだけなのではないか?」と誰かに言われるかもしれないと思って、先に予防線を張っているだけなのだ。そうとも言える。そうとも言える。

ただ自己肯定のために緩やかさを称揚すること。それは美しいことなのだろうか?それは真の問いだが、私は「自己」も「肯定」もよくわからない。「自己」も「肯定」もどうしようもない開閉性に満ち満ちている。

蜜満ちてありと思えりこの星の海に陸地に人のからだに
『青き湖心』

陸地は「くがち」と読む。

そろそろ真剣に詩の勉強をしよう。貪欲に世界を表現しよう。それは嫉妬深さの表現なのかもしれない。それでもしよう。これは決心しようと決心することである。決心できているわけではない。透き通った耳鳴りがする。そろそろ危険だ。家に帰らなくては。私は貫かれ、すべてのものは幽霊に見える。幻聴幻覚、それが幻だとは言えなくなる。家までが遠い。表現できてよかった。表現者として強くあることなどできず、これはただの自己防衛だったのだ。世界が鳴っているのではない。私がなっているのでもない。耳が鳴っている。車が通った。白いプリウス。耳鳴りは世界の音かもしれないと言えるくらいには幻と化した。足音が聞こえる。これは私のものだ。遠回りをする。暗い場所を通らないように。タバコのことを忘れていた。灰になっている。かなり長く。表現者の強さなどない。表現者は表現することでしか生きられない、弱い者なのだ。マンホールの奥からせせらぎが聞こえる。よかった。昨日詩を書いておいて。家が見えた。よかった。遠くまで行き過ぎていなくて。

夜なのにみんなが起きている気がする。あの窓から誰かが見ている気がする。家の電気は落ちている。そんな家のほうが多いのに。世界が軋んでいる。

よかった。家に着いた。タバコの臭いがしたら申し訳ない。しかし、生きるためには帰らなくてはならない。仕方ない。

マンホール足裏ぴとり夏の川

この詩が私を救ってくれた。リビングには猫が居た。眠そうに毛づくろいしている猫が居た。

投稿するのはここまでにしよう。

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