四章 読書から見える「よく生きる」の諸形態

「生きる意味とは」と問われるとすれば、私はどう答えるでしょうか。
きっと「生きることに意味があるのではなくてよく生きることに意味があるのである」と言うと思います。
では「よく生きる」ってなんなんでしょう。
倫理的に生きること?強く生きること?優しく生きること?
私には何もわかりません。
手探りで「よく生きる」ということを探し続けています。けれど別に私はこの「探し続ける」ということに特別の意味を見出しません。
「生きる意味とは」という問いに詭弁のような答えをするとすれば、「生きる意味を探すことが生きる意味である」なんてことも言えるかもしれませんが、それは変に気取った答えだと思います。
このような気取りが生まれるのは「意味」ということと「価値」ということとが不可分になっているからではないでしょうか(不可分でも全然構わないのですが)。
そりゃあ、「生きる価値」だったら「探し続ける」ということでもいいのでしょうが、「生きる意味」というのはそれではいけないと思います。
「意味」は「差異」のネットワークによって形成されるものですから、「生きる意味とは」というのは「私より○○な人がいるのにどうして私が生きていることが必要なのか」ということなのだと思います。現代は特に「友人」よりも「他人」が見えますし。
そして人類にとってこれが最も悲劇的だと思うのですが、「生きる意味とは」と悩む人がこの世には、この世界にはたくさんいるのです。
そのことによって「生きる意味とは」と問うことでさえも「意味」とはなり得なくなっています。
だから私は「価値」志向的な「よく生きる」を提示したいと思うのです。
それが冒頭の「生きることに意味があるのではなくてよく生きることに意味があるのである」という「意味」の「差異」の「転移」なのだと思います。
「意味」のネットワークと「価値」のネットワークで「意味」を生む、この逆説的な関わりに「価値」を見出すことこそが私の提示したいことなのです。
我ながら端正にまとまった議論から始まったので、今回はおそらくまとまりがありそうです。
前回は少し酷かったですからね。

さて、実は今回からが難しいのです。
三章までは私が事前に考えたり、書いていたり、そういったことを「まとめる」ことや「語り直す」ことが課題でした。
ここからは「語る」ことが課題になるのだと思います。もちろんそれは「語り直し」なのですが。
そのことは、事前に考えていた計画を参照するのがどんどんと難しくなってきていることが明確に示しています。
しかし、「反復」のために確認しておきましょう。

四章 読書から見える「よく生きる」の諸形態
ここからは「読書」ということを考えることによって得られたものを先鋭化し,それを「よく生きる」ということに向けるためにはどうすれば良いか,ということを考えたい。
それは人生論というよりは「よく生きる」の根源に向けられたものである。
上の三つの章から,「待つ」ということ、「閉鎖」ということ、「偶然」ということなどを引き出して,「振る舞い」として思想の定義をしようと思う。
それは今はあまり明らかになっていないが,私の根本思想である「『私』と私」は確実に出てくるだろうし,おそらくは「私」の非連続性と同一性の議論から「癖」としての個性を見つめるものであろう。
また、私を「私」として閉鎖する方法を考えること,そのことを行うために「判定する」から「判定される」へ、という移行を定義するであろう。
このようなことを総合して,「価値判断を譲渡せず手放す」という不思議な態度を獲得することを目指そうと思う。

こう読んでみてもわかるように、ここからやりたいことがたくさんありすぎて「まあ、こんな感じだろ」という気概が存分に感じられる「事前計画(?)」ではないでしょうか。
しかし、そんなことを言っていても仕方ないので、方向性を示しましょう。
簡単に、はっきり言えば、一章から三章までに出てきた素敵な概念を「よく生きる」ということを考えやすいように「概念化」して、相互に「連関」させよ、というのが私の要請です。
無理な要請をするものです。
そんなことができるのなら、一章から三章なんてエピソードでしかないじゃないですか。
まあ、やりますけれど。

昨日、本棚を整理していると、三木清の『人生論ノート』を見つけまして、整理をサボって読んでいるとこのような文章を見つけました。

愛は統一であり、融合であり、連続である。怒は分離であり、独立であり、非連続である。
『人生論ノート』

これを見たとき、「ああ、私が言いたいことなんて、これだけでいいんだ。」と思いました。
私の「読書」も「よく生きる」も「怒」に他ならなかったのです。「分離であり、独立であり、非連続」だったのです。
『人生論ノート』を参照する気はなかったのですが、この三つの前提を置いておけば少しわかりやすいと思います。

さて、「前フリ」はこれくらいにしておいて、本題に入りましょう。

まずは私の理想、つまり「よく生きる」と考えているものを明らかにしましょう。

私が「よく生きる」として考えるのは、「私」ということが作品として考えられ、それらを統合する私が「癖」として非連続性によって個性的であると考えられているという状態です。
そのとき「作品」というのが大切になるのですが、それは「私」の「気分」や「偶然」が装置として「現象」していることを言います。
また、その「作品」を「判定」するのは「美しい」「豊かだ」という単純で厳格な基準です。それによってのみ「作品」は「判定」されます。
つまり、私は「判定する」ということを「手放す」ことによって「判定される」ということを「譲渡しない」ことこそが「作品」をよくすること、それに伴い「よく生きる」ことであると考えるのです。
「私」=作品を作り続け、それが「美しい」「豊かだ」という基準に「良い」と言われることを「待つ」ことが最も「主体的に待つ」ということなのです。
「美しい」「豊かだ」ということが「私」を私として統一してくれたとき、私は「よく生きる」ことができたと刹那に思うことができるのです。
この全体もまた不連続性によって象られ、その間には「思想」が生まれます。「文体」が生まれます。

危なかったです。このまま関係のなさそうなことまで全部語ってしまいそうでした。
これはもうほとんどこの「読書の本質」で語りたいことの全てです。
今回はこれを読み解くために大切な概念をこれまでの「実践」から拾い集めることにしましょう。

考えるべきことを絞ります。

・「私」と私ということについて
・「癖」という個性について
・非連続性による連続について
・「作品」ということについて
・「判定する」から「判定される」ことによって「価値判断を譲渡せず手放す」ということについて

驚くくらいやるべきことがありました。
「思想」や「文体」はまた今度書くので許してください。
他のものもまた何度も「反復」するので不足感があっても「読み続ける」ことをしてくれれば嬉しいです。

・「私」と私ということについて
まず、「私」と私という考え方です。
私は昔から同一性というものが嫌いでした。昨日の私と今の私は違うし、三十分前の私と今の私は違うし、さっきの私と今の私は違う。私はずっとこう考えていました。
それは生物的な代謝の意味からそうなのではなく、本当に違うと思っていたのです。
それは「責任」という概念や考え方から逃れるためではありません。
刻一刻と変化してゆく私というものをそのように考えられるのが癪だったのです。
そして、私はあるときから、括弧なしの私と括弧つきの私という対立を考えることになりました。
前者が、私。後者が「私」と呼ばれるものです。
私というのは「私」ということが集まった、もしくは集められたものであると考えるようになったのです。
それは歴史として連綿と「私」があるというわけではなく、たまたま認識というものによって「統一されてしまった」ものが私だと考えるようになったということです。
そもそも、私が同一性を癪だと思ったのは、作品と出会った私が私と名指すのが失礼なくらい素敵だと思ったからです。
私はその「素敵」ということを守るためにこんなに面倒くさい概念体系を作り出してしまったのです。
この私と「私」というのは、一章で触れた「いつでも、どこでも、誰でも/今、ここ、私」との対立に転移しています。
もちろんそれらが指すところは異なるのですが、それは「反復」の一種です。
私は「私」と私を意地でも分けたかったのです。
「今、ここ、私」というものを「私」として括弧付きで呼ぶこと以外にそれを解決する術はありそうになかったのです。
そして私は「私」を豊かにするために「行為」することこそが「よく生きる」ということであると思い至ったのです。
これがただの思い込みである場合があるのはわかります。
だからそれを「判定される」ためにも私はこれをわざわざ書くのです。

・「癖」という個性について
そしてそのような中でもやはり「統一されてしまう」私というものについて反逆を示すために私は「癖」という個性観を打ち出すようになってきています。
「個性」というのは「どうしようもない癖」なのです。
「私」を私に統一してしまうのはこの「どうしようもない癖」だと私は考えるのです。
「個性」を育てるのではなく、「個性」と付き合うことが大切であると考えることは、「私」という豊かさと私という堕落とを考える良い術なのです。
「よく生きる」ということに関しては「癖」を隠さず、それを「美しい」「豊かだ」ということに向けてゆくことが大切だと考えたのです。
天邪鬼で非倫理的な私もまたそのことを信じているのです。
「個性」と付き合うためにはたくさんのそれに出会わなければなりません。
それが「個性を磨く」ということだとも言えます。
それはたくさんの種類の作品に出会うことによってなされます。たくさんの人に出会うことによってなされます。実際出会わなくても,強く出会うことで私も知らない「癖」として私が現れてくるのです。
この考え方は「同一性」を退け,「癖」という最も非同一的なものをそれに代わるものとして提示することによってそれを転覆させようとするものなのです。

・非連続性による連続について
非連続性による連続。
これが最もレトリカルかもしれません。
しかし考えれば最も親密な概念であると言えるかもしれません。
私たちは「連続」ということを重視します。「同一性」などはその典型でしょう。
しかしそれが求められるのは「非連続」ということを「連続」として考えるために規範となるからだと私は思うのです。
私たちは毎日睡眠し、朝起きて「私だ」と思うまでもなく私ということを当然私であると考えています。
私が批判したいのはそのことではなくて、「非連続」ということが最も連続的であることを認識しないことを私は批判したいのです。
切れ目がつなぐのです。
そしてそれの最も「美しい」ものが「思想」なのです。
また、この「非連続」というのは「今、ここ、私」と関係するものです。
私は、憎き同一性としての私は「今、ここ、私」において、作品と出会うことで「私」となることができるのです。
「気分」も「偶然」もそこで息を吹き返し、それぞれの真の姿を見せることになります。
それはたしかに蠱惑的で恐ろしいものです。しかし「美しい」ものなのです。
非連続に連続を見る私たちにこそ美しさがあるのに、そもそも連続しているのだと言われるのは少し美しくないと私は思うのです。しかも非連続を取り戻すために「線を引く」のです。それは本末転倒でしょう。元々不連続な私たちの世界をもっと細かくするのです。私はそれが不思議でならないのです。

・「作品」ということについて
次は「作品」ということです。
ここまでを踏まえると、「作品」というのは「私」を生み出すものであると言えます。
また、「私」というものを「触発」に「巻き込む」ものであると言えます。
この「作品」というのは、このような「現象」のことを呼ぶのです。
「空が青い」ということも「触発」に「私」を「巻き込む」のであれば「作品」なのです。
もちろん、「作品」は三章で述べたように「作品」として「装置化」されている必要があります。
それを整えるのが「作者」という「職人」なのです。

次第に抽象度が上がってきていますが、最後です。
これだけはもう一度見つめてみましょう。

・「判定する」から「判定される」ことによって「価値判断を譲渡せず手放す」ということについて

ここまでの文で何度も書いていますが、「美しい」や「豊かだ」というのが「判定」の基準です。
それは「こちらをずっと見ている」のですが「何も言わない」ものです。しかし、「美しい」時に「美しい」と言うのです。
この絶対的に断絶されている基準こそが「判定する」のであって、私たちはそれを「判定される」ということとして認識する必要があるのです。
上にひどくレトリカルに書いていますが、「価値判断を譲渡せず手放す」ということが大切なのです。
これが最も抽象化された一章から三章の重要なところです。

ここまで確認すれば、先程のこの「読書の本質」の全てと私が称した文章が解されるでしょうか。
見てみましょう。

私が「よく生きる」として考えるのは、「私」ということが作品として考えられ、それらを統合する私が「癖」として非連続性によって個性的であると考えられているという状態です。
そのとき「作品」というのが大切になるのですが、それは「私」の「気分」や「偶然」が装置として「現象」していることを言います。
また、その「作品」を「判定」するのは「美しい」「豊かだ」という単純で厳格な基準です。それによってのみ「作品」は「判定」されます。
つまり、私は「判定する」ということを「手放す」ことによって「判定される」ということを「譲渡しない」ことこそが「作品」をよくすること、それに伴い「よく生きる」ことであると考えるのです。
「私」=作品を作り続け、それが「美しい」「豊かだ」という基準に「良い」と言われることを「待つ」ことが最も「主体的に待つ」ということなのです。
「美しい」「豊かだ」ということが「私」を私として統一してくれたとき、私は「よく生きる」ことができたと刹那に思うことができるのです。
この全体もまた不連続性によって象られ、その間には「思想」が生まれます。「文体」が生まれます。

「待つ」ということと「偶然」や「気分」ということを忘れていました。
「作品」というのは「偶然」や「気分」をそのまま保存したようなものです。
私は「私」を「作品」との関わりで発見すると書きましたが、それは「偶然」や「気分」といった普段は排除されがちなものがそこでは存分に力を発揮し、「快楽」として機能しているからです。
それはそれこそ偶然の産物であることもありますが、多くの場合は「作者」が均衡を保つことでその「現象」を「作る」ことができているのです。
だから「作品」を「作る」というのは、その時の「私」というものの「気分」や「偶然」としか言えないようなものをそこに「装置」として表すことを言うと私は考えます。
その時の「私」が感じた何かをより強く鮮明に「感じる」ということにもたらすために私は「作品」を「作る」のです。
だから「良い作品」というのは、「感じる」ということを全身でさせ、そこに「作品にできない強さ」を現れさせることのできるものであると言えるのです。
それが「触発」ということなのです。
また新用語かと思われるかもしれませんが、これについての定義は一章でなされています。

「触発」とは嬉しい受動性のことである。

「作品」と触れ合い、そこに「美しい」や「豊かだ」という嬉しさがあれば、それを「触発」と呼ぶことができるのです。

こんなにもさまざまな概念が大騒ぎしている饗宴を開いたことがないので、少し頭が疲れすぎています。
しかし、この狂騒の中で「主体的に待つ」という「感じ」に「触発」された人がいるのなら、これは成功です。
また、次回はこの狂騒を一つの概念で「集める」ので、楽しみにしていてください。
「快楽」と「閉鎖」を忘れていましたが、それはまた次回にしましょう。意外と大きく深い「テーマ」であったのはとても嬉しいことです。

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