二週間くらい労働してみて……

バスを待つ。だいたい少し遅れる、そんなバスを待つ。

さて、まるっきり労働なしの状態からばりばり労働ありの状況になったわけだが、そこで気がついたこと、実感したことを考えることのエネルギーにしてみたい。

心底思ったのは私は体力がないということである。この「体力」というのはもちろん「体を動かす力」でもあるし、それと同時に「精神を保つ力」でもある。私はどちらもない。もちろん、新人がいきなりこれらを持っているということはなく慣れるのを待たなくてはならないことはあるだろう。しかし、私はどうしようもなく疲れてしまったのだ。

もう一つは、と、書いたがこのままだらだら書いていきたいので、「あとは、」くらいにしておこう。あとは、私の生活のリズムは読書が作っている、ということへの理解の洗練があったように思われる。私は「本を読むとリズムが良くなって生活が豊かになる」みたいなことを思っていた。いまも同じことを思ってはいるが、この「リズム」というのは「反復されうる作品を収集する」ことと「生活の中で作品を反復する」ことという二つのことをゆらぎゆらぎすることであると思った。

そして、この「リズム」が疲れてるということによって取れなくなってきたのだ。そして、これは「反復する」ことのほうにも影響しているのではないか、ということが重要なことである。忙しくなって「収集する」ことが以前よりできなくなったということならわかりやすい。が、その「収集」はなんというか、砂金を探すことではないし、コレクションすることでもない。ただ単に沈殿したものがその「収集」を支えている。別にする必要のない「収集」を支えている。そしてその沈殿に「反復」は関わっている。だからこそ基礎にある「反復」、そしてそれを支える健康に思いが至ったのだ。

「反復」に必要なのは「記憶」と「洞察」である。この二つのことは相互作用している。「記憶」するためには「洞察」がなければならないし「洞察」するためには「記憶」がなければならない。ただ、どちらも「一つにする」という意味では同じである。この二つの「一つにする」に高低差をつけるとすれば、「記憶」は「記憶より雑多なもの」を「一つにする」のに対して「洞察」は「洞察より雑多なもの」すなわち「記憶」を「一つにする」と言える。この「一つにする」はほとんど自動的なこともあるが結構能動的でなくてはできないこともある。その能動的でなくてはならない部分を支えているのはやはり「健康」である。その「健康」が失われている。そんな気がする。

私は病んだ。いや、私は私を「病んでるなあ」と思った。しくしく泣いた。その理由づけはできるがもっと、もっと元も子もないことを言いたかった。それが「健康」に行き着いたのだ。そして体の弱さに。もちろん、承認不足とか、能力不足とか、気力不足とか(気力不足は能力不足なのか、それとも能力不足とは異なる次元に気力不足はあるのか。私は後者であると思っている。おそらく。ただ、気力があればなんでもできると思っているわけではなく気力がなければなんにもできないと思っている。おそらく。そう、ここで「気力」は二重化している。より根源的なそれとより能力的なそれに。)、そういう不足に訴えようとも思った。が、それらは歴史において不変ではない。偶然において強度が低い。そう思ったから私は「健康」を理由に据えた。もちろん、これはそれらからの逃走でもあるだろう。本来は闘争しなくてはならないそれら、それらを闘争しなくてはならないとされる、あくまでそういうことにされていることであるとする。そういうことでもあるだろう。言わば、腰抜けにも見えるだろう。たしかにその線はいつもちらつく。が、私が引き受けようと思うのは気力不足だけでそれ以外はなんというか、実感に耐えない。私が持っている実感というものに耐えきれない。能力不足や承認不足というのは。そういうふうに思っている。

ただ、このように思うことは別にそれらを放棄してもよいということではない。それらから気力を得ているのはほとんど間違いなく、それを無視することはできない。あくまで真剣な思考においては。ただ、私は別に真剣であるべきだと言いたいわけではない。

私は考えごとを、特に書きながらするそれを「手探りで集めて必要なものが手元に残ってくる」営みであると考えている。というか、そういうふうに理解している。身体的に。ここまでの一連の思考もそうである。し、それだからこそ思考であると言えると思っている。

あとは、私は私になんというか、酷な要求をしていることにも気がついた。そして、私は私に向けて書こうとしている、ことが多いのでみなさんにもそうしてしまっていることになる。それをひしひしと感じた。

私はしくしく泣いた。そしてそのことをある人に伝えた。そして私はそのことを「かまちょかな?」と反省した。し、言った。その人に。私はその人に思うことすべてを言った。そして私は行き着いた。「なにを言えばいいかもなにを言わないべきかも、何か言いたいのかも何も言いたくないのかも、なにもかもわからない。」というところに。これも言った。その人は優しかった。もちろん、ここで優しくしない人なんているかがわからないが優しくしてくれた。もしかするとここで優しく感じないのだとすれば私は死んでいるのかもしれないが、その人は優しかった。

私は初めて死を近くに感じた。いままでもなんとなく感じたことはあるが継続して感じたことはなかった。それを感じた。と思っているだけなのかもしれないが。と思いたいだけなのかもしれないが。

こんな話をしているとその人は言った。「やめるんじゃだめなの?」と。私は思った。たしかにそうだ。と。しかし、こうも思った。「エネルギーを回す、それができないならなにをやっても同じではないか。」と。ただ、私はそれを言い訳だとも思った。(二重の反転する言い訳。)

「も」で繋がっていった。「あれもこれも」そして、「と思った」ではなく「とも思った」。

私の周りには何かが集まっている。何が集まっているのかわからないまま、わからないままに集まっている。そして私はそれらに押しつぶされ消えようと思った。わけではない。ここは正直になろう。(別にここまでが素直じゃなかったわけではないが。)死亡動機が見つかってしまった。そんな感じであった。ふと、私は、バイクに乗っているとき、ブレーキを握らなかったらどうなるんだろう、と思うことがある。いや、あった。労働前にも。それが「思う」で済まなくなってきた。そういう感じである。もとにあるのは死の欲動である、そんな気がした。

私は死にたがっていて、私はその理由を探していた。そんな物語を思った。し、半分くらいは実際にそうだろうと思っている。

不安。そう、私は不安を感じることがあまりない。し、いまもあまりない。たしかに病んでいたと思うし、いまもなおそうである。そう思う。が、不安なのかと言われると別にそういうわけではない。

まあ、ただの不感症の可能性はある。し、根本がそれだからエネルギーを求めて究極的には死に、そしてその裏にある生に到着したり到着しそうになったりするだけだとも思う。

なんというか、読書でもたせていたところがあるのである。私はもはや何にも感動しなくなってきていた。から、読書でなんとかしていた。そんなところもある。から、読書をする時間が減ったりなくなったりすれば元々あった無感動が屹立することはありえるだろう。そして最後の砦がコロッといってしまいそうな、そんなことはあるだろう。

私は不安であった。唯一、それが不安であった。私は急に死ぬかもしれない。誰かはそのことを悲しむかもしれない。あの人は、あの人は、悲しむかもしれない。それだけが不安であった。それが死ぬことへの不安かと言われればよくわからない。

唯一楽しかったのはバスの窓からいろいろなものを見ることである。バスの窓からものを見るということが私は好きなのだ。同じ時間のバスの同じところに座り、なにも考えずに外を見る。すると労働以外のことを考えられるのである。いや、労働以外のことも考えられるのである。

これくらいだろうか。今日はあまり集められなかった。いい感じに集められなかった。まあ、これは「いい感じに集める」ことができなかったのではなく「集められなかった」をいい感じにできたということでもあるかもしれないが。

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