このごろずっとぼーっとほーっとしている
さみいー
本を読めないことがストレスなのではなくて本を読めないくらい元気がないことがストレスなのではないか。まあ、この言い換えにどういう意味があるかわからないくらいには疲れている私だけれど。
思考のストライド。いい概念。
いい概念を出して、それをひとりにして、ひとりになった概念同士がざわめいている。騒いでいる。ざわざわざわざわ、不愉快ではない仕方でざわめいている。
これが一つの理想型である。詩の。哲学の。
偉大なる評価者になりたい。間違いのない眼ではなく、曇りのない眼でもなく、ただ偉大な評価者になりたい。創作者になれるかどうかはわからない。し、勝手になってしまうものだろう。しかし、評価者というのは暇つぶしとして極めて洗練された、そんな在り方なのである。
今日は一つの詩にすらならないな。
書くと読むを選り分けるのはどういうことだろうか。書くことは読むことから始まり、読むことは読むことから始まる。そう思うと書くことはやはり、やっぱり読むことの一部なのである。ただ、書くことを拡張して、何かに働きかけることだと、文字を書きつけることだとするならば、やはり読むことの始まりには書くことがあると思わざるを得ない。書くことと読むことが同時であるとき、私たちはやっとそれらが二つとして一つであることの意味がわかるのである。例えば、世界という書物。
仕方なく書くことを一つのやわらぎとして際立たせている。仕方なく。それくらいしかできず、それくらいはできるから。眠たくて眠たくて震える。寒い。さむいー
一つになってしまった。まだまだ書く。私はパカラパカラ走る、馬を見たい。
競う馬。競馬。競う人。競人。きょうじん?狂人。にやにや。きそんちゅ。
目の少し上を掻く。リズムがよくなる。メガネが揺れる。馬が走る。
馬に集まる。ドゥルーズのアリストテレス。
仕事を切断した。空いた空間は溶けた。しかしそれは準備期間となった。本を読むぞ!本当に読むぞ!
家の隙間を縫うように歩く。たまに家の声が聞こえる。具体的なことはいっさい思い出せないが、家のなかで生きている人の声が聞こえる。しかし、住宅街はいつも閑静である。人っこ一人いないかのように、住宅街はそれであり続けている。これほど不思議なことがあるだろうか。私は聞こうとしていないだけなのだろうか。
もうすぐご飯が炊ける。もうすぐご飯が炊ける。私は作るのだ。夜ご飯を。混ぜご飯。今日は混ぜご飯。ご飯という大気性、粒性を活かすことが混ぜるということになる。混ぜご飯。
頭を掻き毟る、のではなく潰そうとする。ぎゅいんと潰す。握り潰す。握るような毟り、私は狂人ではない。強靭ではない。狂人の強靭さは矜持には変わらない。今日時間は進まなかった。わけではない。世界は今日も実は同じことを繰り返している。繰り返していない。
私は変な人である。よくそう言われるし、そうであろうと思っている節もある。しかし、私はあまりモノマネされることがない。もちろん、本人の目の前でその人のモノマネをすることは失礼に当たる場合も結構あるからされていないだけかもしれないが、それにしてもされることが少ない。そして私はなぜか覚えている。いや、思い出した。いや、なぜか覚えている。「Tさん(私のこと)って意外とモノマネできないっす。」と後輩が言っていたことを。なぜなのだろうか。ご飯を作らなくてはならないのでとりあえず置いておこう。久しぶりに文章を読むことと考え事をすることが共立した。『ひとごと』と私。
他人の洒脱など信用ならない。しかし、他人の洒脱しか信用するとかしないとか、できるとかできないとか、そもそもそういうことができない。
ぼーっとしている。最近の私は。「ぼーっと」ぼーっとしている。最近の私は特に。
哲学的問題に引っかかることは容易にできる。しかし、それを問題として仕立てることは極めて困難なのである。
自分が持っている不安をどのように、どのように誤解するか、そして理解するか、そして誤解するかが重要なのである。そう、皆さんもお気づきだろう。私は哲学書を読んでいる。しかもいまの私には不釣り合いなくらい徹底的な。
『現実性の問題』の8章「「拡張された他者」としての現実性」を読んでいる。極めて誘惑的というか触発的というか、そういう感じでいますぐにでもまぐわいたいのだが、いま私はそんなに元気ではない。ただ、やっぱりこの本は読むべき本で、やはり相性が良いのだと思う。私と私の読んでいるものたちと。
いきなり詩から哲学に移動した。根底にはあるよ。詩の力が。まだ私にも。
部屋が温くなる。頭がぼーっとする。ぼうっとする。私はそのなかで身体に染み込ませるように『現実性の問題』を読む。読む。いくつかの詩を、そしていくつかの哲学者を、私は見送る。いや、金縛りにでもあっているかのように見ている。なにもできない。私は、なにもできないのだ!
入不二はいつも拡張している。開発といってもいい。それはたしかに同型で、irifujingだが、それは一つのストレッチ、ストライド、スタイルなのである。
さあて、あとは泥んでいよう。泥のように眠るまで。
君のしていることは実はこういう原理に基づいていたんだ!と言う人がある。それ自体は楽しい余興で紛れもない真実なのだが、していることと原理、もっとわかりやすく言えば行動と行動原理は一緒に存在するからそれぞれの領分を保ってられるし、それが余興性であり真実性なのである。それを忘れてはならない。
私は哲学書を読むと、読んだあと、人生訓屋さんになるが、これはなぜなのだろう。いや、アフォリストとかモラリストとか言っても別にいいのだが、哲学書を読んで哲学的なことを言ったことがほとんどないような気がする。
ひとにはひとの実践性。
哲学はどんどんテクニックになっていく。哲学はどんどんテクニックになっていく。私は真顔で、私は笑顔でこれを言った。あいだに、反復はあらかじめ予定されていたが、その反復のあいだに私は社会学、そしておそらく心理学のことを見遣っていた。眉を少し憎たらしく少し物憂げに上げながら。
突然の、戸惑いを予測してもいるだろう「だから」を茶化さない。一つの目標ができた。それに向かい続けることもできないから結局何もしないのだが。
大学の先生に「離人症って知ってる?」と訊かれたことがある。それはたしか、『注文の多い料理店』の話を、さらに言えば冒頭の「風がどうと吹いてきて」のところの話をした後だった。私は私の研究内容について話していて、いや、研究内容と言うほどではない、なんというか、思うことを話していて、なぜかそんな話に行き着いた。そしてその先生は言った。「離人症って知ってる?」と。知らなかったので「知りません。」と言った。するとその先生は言った。「私はよく知らないけれどライプニッツを読むといいんじゃないかな?」と。その先生は最近死んだ。特に親交が深かったわけではないので葬式には行かなかった。いや、もしかすると行けなかったのかもしれない。けれど、行けたら行けたような気がするから「行けなかった」と言ったのかもしれない。
驚いた。ぼーっとしていたから気がつかなかったが、いま読んでいる『ひとごと』のなかの文章のタイトルは「痛み、離人、建て付けの悪い日々」である。どうして離人症の話をしたんだろう。ああそうか、これは一つ前に読んだ「時間の居残り」と少しではあるが繋がっているんだ。「なんとなく」。
「痛みからの逃避として離人的な孤絶があるのか、うまくいく関係の相互性という屈託からの逃避のために痛みと孤絶があるのか、もはや区別できなくなる。」(『ひとごと』197頁)
高度すぎてよくわかんない。とりあえずそういうふうに思っておこう。正直私は福尾と折り合いがついていない。なんというか、私は福尾とコミュニケートできていないし、もし『非美学』や『眼がスクリーンになるとき』を先読んでいなかったとしたらとっくにこの本を売っているか、もしくは誰かにあげているだろう。もしくは本棚に眠らせているか。正直なことを言えば、高度というよりも何に対して言われたことなのかがよくわからないのだ。ひねり出さなくてはならない、それ自体がよくわからないのだ。
私は私を卑下しないしあなたも卑下しない。私にはわからないがわかる人はいるだろうと思う。私がそれになるかもしれないとも思う。しかしなりたいとは思わない。「なりたい」が卑下の原因なのだ。別に卑下したくないからなりたいと思わないわけではない。しかしなりたいと思わないおかげで卑下しなくて済んでいると思っているから卑下したくないのかもしれない。
突然悲しくなってきてしまった。みんな生きていて、なんだか涙が出そうになってしまった。少しだけ溜まった涙は流れず、私はぬいぐるみを抱きしめている。なにも声をかけてこないし、かけてくる可能性もない。まったき他者、物、なんて安らぐ事実なんだろうか。
私が福尾を無碍に飛び越えてしまっているとするならば、飛び越えているとするならばそれはおそらく、「気持ちいいから」と「気持ちよくなるためにはなんらかの偏りが必要だから」が組み合わされた原理で人間の行動を理解しているからであろうと思う。
ああ、そう言えば大学の先生は心理学の先生だった。私はその先生の授業で、最初のコメントで「私は心理学が嫌いです。人間の一般的な心的傾向を知って何になるんです?(大意)」みたいなことを書いた。酷いやつだ。「何になる」かなんてことはお前も考えていないだろうに。「哲学なんてして何になるんです?」と言われたら鬱陶しいと思うだろうに。甘えたかったのかもしれない。私は割と大学で認められていたが、それはいい子ちゃんの私というか、たまたまうまくいった私というか、そういう感じだと思っていたのかもしれない。結局論文が書けなくて辞めたけれど。大学院で。
大学院を辞めた理由を私は結構適当に、おおまかに捉えている。そのようにしている理由が私にはよくわからないのだが、考える気も湧かない。もしかするとなんだか薄暗い気持ちがあるのかもしれないが、私はそうは思っていない。たまたま向いていなかっただけ、論文執筆に。もちろんこれをもっと深く掘り下げてもいいが、一つだけエピソードを。最近その大学に行った。ある用事があって。そのときに私が辞めたとき(随分前のように言っているがまだ八ヶ月くらいしか経っていない)に後輩だった人に言われた。「やっとTさん(私のこと)がなにをやっていたのか、やろうとしていたのか、そしてその凄さがわかるようになってきました。」と。その人とは喧嘩というか、睨み合いというか、そういうこともして、私は嫌われていると思っていたのだが、そういうふうに思われていたらしい。まあ、皮肉かもしれないし、正直なことを言えば「本当にわかってんのか?」とか「あなたがやりたいって言っていた研究とどういう関係があるか私にはわからない。」とか思ったが、なんだか少し救われた気がする。軽口だったのかもしれないが、私は真摯な言葉として受け止めることで一度ある角度から受け止めようとするきっかけにはなったのだ。うまくいくといいなあ、その後輩は。
なんか、書く筋力が戻ってきた気がする。まだ読む筋力はないけれども。ただ、これが疲れによるものなのか、それとも風邪による副作用なのか、それはよくわからない。部屋が温すぎるのかもしれない。
読書には少なくとも一時間の孤独が必要である。それを調達することに苦労しているのかもしれない。孤独であり続けられるというのは一種のスキルであり、一種の幸運である。まあ、「幸運」なんて言ったら同居人は悲しんでしまうかもしれないが。
真剣に読もうとしすぎなのかもしれない。もっと適当に読めばいい。さあ読め。『ひとごと』を。
「切れば切れ、炒めれば炒まり、食べたらなくなる料理と食事のあっけなさは、何を書いても、何かを考えているという手応えから見放されたような苦しみの対極にある救いだった。」(『ひとごと』40頁)
「『非美学』で書いたのは、「哲学する」ということを、世界の全体を外から眺めるような卓越的なものから引きずり降ろすなら、この世界のなかで、哲学は哲学でないものとどのように関わるのかということだった。それは裏を返せば、「哲学しない」ことの領分みたいなものを確保することの倫理についての話だったのだと思う。」(『ひとごと』40頁)
とりあえずこの批評=エッセイ集に入っているものをすべて読んだら本棚行きだろう。この本は。大抵の本は、というかすべての本はそうなのだからわざわざ言う必要はないが、なんというか、私は私に償いたいのだ。何かを。ちなみにあと九つの文章が残っている。一つ読もう。「日記を書くことについて考えたときに読んだ本──滝口悠生『長い一日』について」を読む。
よかったねえ。たぶん、「日記」ということについてはある程度の実感、そしてそれを疑わなくてもいいというゆるしというか、ゆるいところがあるのだと思う。私と福尾のあいだに。いや、精確に言えば、私と福尾を繋げる第三者としての私に。だから読める。話そうとできる。しかし、他はなんだか厳しい。もちろん病気明けだからなのかもしれないが。
正直なことを言えば(誰に対して正直なのだろうか?ずっと正直に言えばいいではないか。いや、正直さも一つの演技なのである。思い切りであり、回路であり、構築なのである。)、私はこの批評=エッセイ集が好きではない。たまに好きなところがあるが、それはなんというか、一つの救いでありそれゆえの一つの人間性である。
ただ、福尾自体は好きなので、なんというか、全集を読むみたいな気持ちで読んでいる。『哲学探究』を読むみたいな感じと言ってもいい。バロック的ではないと言ってもいい。全体が反復によって作られるのではなくて流れによって作られる、そんな感じなのである。いまやるべきこと、やられるべきことは。これは信頼がなせることである。私が仮に福尾を信頼していないのだとしたらこの本を私は本棚に戻している。それが最も冷酷である。仕方なく売るとか、誰かにあげるとか、そっちのほうが温情がある。
「思弁的実在論における読むことのアレルギー」を読もう。一回読んだけど。
「手渡されるガジェットのたんなる消費者を超えること(手を動かす者が偉い)に、あるいはテクストに閉じこもるたんなる読者を超えること(頭を使う者が偉い)に投機的(speculative)な価値を見込むことは、このふたつの能動性のあいだに垂直的な「理論と実践」という分割を復活させる。そこで看過されているのはラディカルな受動性であり、それこそが個々の実践の水平的な干渉として「思考」を惹起し、哲学をその実践において経験論にするのだ。」(『ひとごと』210頁)
なんかいいなあ。福尾自身はこの文章を「ごく短い文章だが「現代思想」に対する僕のスタンスが凝縮されていると思う。」(『ひとごと』267頁)と解きほぐしているが、私は「スタンスが凝縮されている」ものが好きなのかもしれない。ちなみに福尾はこの解きほぐしに続いて「自分が見たり読んだりするものとの出会いが、あらかじめ信じられた「身体性」みたいなものに保証されることもなく、むしろそれを壊してしまうようなリスクも込みで自分の言葉や考えに跳ね返ることを肯定する態度が、僕が「ポスト構造主義」というものから受け取ったものだ。」(『ひとごと』267頁)と言っているが、私はこのようなことを「癖」とか「偏り」とか、もっと構造的に言えば「変化」における「同一性」とか「反復」における「一回生」とか、そういうことから考えている。千葉/福尾は無際限/無の境界線を無際限から/無から跨いだり見遣ったりしあっているのである。おそらく。ここには入不二が強く響いている。まぐわうには肉感性や欲望性は必要でなく、むしろ目配せ性や眉上げ性が必要である。
帯をつけて今日は終わりにしよう。いつもは帯を捨てるけれど。私の信頼はここにも表れている。
そろそろ『イルカと否定神学』も読み始めよう。本当は『ひとごと』を読み終えてからの予定だったが、それをすると課題的になりすぎる。『ひとごと』を読むのが。本を片付ける。
否定神学は楽なんすよね。なんというか、楽なんすよ。その楽さについて考えたいわけですよ。そしてその手応えのなさ、暖簾に腕押し感について考えたいわけですよ。私は。生きるために。
実存は哲学に必要なのか、みたいな話を読んだことがあります。本でも本ではないところでも。私は別にどっちでもいいと思うんですが、使えるとは思います。実存は。しかし、実存がない、ように見える哲学を愛するという目的のために言われていない「実存は哲学は必要である」論は信じられません。とりあえず「実存は哲学に必要である」と考えることが惹起するもの、力なり欲望なりを用いることなしに考え始められると、学び始められると私は思いません。
ウィトゲンシュタインは梯子は捨てられなければならないと言いましたけど、それは関係あるんですかね。欲望が哲学には必要であると、そして欲望には実存の力が必要であると、ウィトゲンシュタインは思っていたのかもしれません。私はそう思いました。やっとウィトゲンシュタインがわざわざああやって言った理由の一端がわかった気がします。まあ、「悟った」と言うさとりんちゅの不思議はまだまだありますが。
眠りましょう。今日は終わりませんが今日は終わりです。またいつか読まれることを願って。アーメン。三年。観念。
推敲後記
いつも推敲すればある程度内容はわかるようになるのですが、今回はわかりませんでした。というか、羽を伸ばそうとしたらいつも途中で呼びかけられたり連れて行かれたりしました。