ここに人生訓はない

 軽く、ふゃりと書いてみたい。いつも書いているようなことを。

 私は思うのだ。私はすでに楽しむということを知っている。何を読んでも聞いても、ある程度は楽しめる。もちろん度合いもあり、そこに一つの区切りを立てることはできる。けれど、私は知っている。私は何でも楽しめるということを。
 これについて、私は随分、何度も書いてきた。それは他人にとっておそらく、おそらくはこのことが優れて響くと思うからである。しかし、私はつまらないとも思っている。その反復を。なんというか、あまり享楽的ではないのである。書くことを楽しめない。いや、別に楽しめないわけではないがダラダラしている。別にダラダラしていてもいっこうに構わないが享楽していないということはあまり良くないことであろう。
 もちろん、リズムに乗れず、気分が乗らず、そんなときはある。もちろんそうである。しかし、そのダラダラはそういうものではない。飽和のダラダラなのである。私はしかし、何度もこれを書こうとしている。なぜなのだろうか。それはわからない。
 「同じものの反復」ということが起こっている。「同じもの」が先に存在するか、それとも「反復」が先に存在するか、そもそも先とか後とか、そういう形で考えることが良くないのか、私はわからない。しかし、なんというか、たしかにそれは私の力不足ゆえなのかもしれない。が、むしろ私はそういう曖昧さ、どっちつかず、どっちにもつくこと、そういう遊動性、それが望ましいと思っている。ような気もする。
 ここにあるのはおそらく、制御のメタファーとエネルギーのメタファーの均衡である。エネルギーが有り余っていると思うか、それともエネルギーが枯渇していると思うか、ここでは少し雑な提示しかできないがそのような、そのような均衡がここにある。
 書くということの少なくとも一つの型は「均衡」である。それはおそらく二項対立の内在的な往還であると思われる。もちろん、これはおそらく矛盾した表現である。もっと精確に言おうとするなら、A/Bという二項対立のAからBへ、BからAへ行くのではなく、向こう側をAとかBとかにすること、それが必要であること、そのこと自体を強く見ようとする、そんな矛盾がここにはある。
 こういう矛盾を抱えつつ、文章は進行していく。私の感じていたつまらなさはおそらく、この矛盾が何らかの形で、おそらくはウィトゲンシュタイン由来の「問題は存在しない」と考える仕方による解消、そしてその解消の解消、つまりは忘却されている形で終わっているからである。「均衡」はなく選択だけがある。しかも別に選択も決断ではなく、ただ単に机上の空論である。お遊びですらない。
 しかし、もちろんこのような忘却がなければ何もできない。なんというか、免責のために考えているような、そんな在り方、私はそれが嫌いである。しかし、なんというか、私の人生論めいたものはそういう在り方をしている。つまり、私は別に人生論になど興味がないのにもかかわらず興味があるふりをしている。もちろん、忘却については興味があるのだが、私は自信のなさゆえにその興味をすぐに人生論に翻案してしまうのである。
 私は別に人生論がつまらないと言っているわけではない。別にそう思っているかは別として。しかし、私のやっている人生論議はつまらない。論議として。そのように思うのだ。同じことの繰り返し、であるかすらわからない。怠惰な反復である。もちろん、そのような反復でも綺麗で素敵な流線が描かれるとすれば別にそれでもいい。しかしそうなりそうもない。それはおそらく根底でどうでもいいと思っているからである。
 ただ、私は私のこのような態度も嫌になっている。なんというか、私は響く。人生論を響かせることができる。それも知っている。そこに完全にアパシーになるとか、それを完全に演技だと断ずるとか、そういうことはできそうにない。それを知っていながらまるで、まるでそれができるような振る舞いをしている。私は「ぺっ!」と思う。「きしょいぞ。」と思う。悟ったふりをしている気色悪さ。それを感じる。
 もちろん、そういう気色悪さをいくら感じられても悟っているのだから仕方ないと思う人もいるかもしれない。私は「どうしてわざわざ『悟った』とか言いたいの?」と思ってしまうのである。しかし、その逆に振った言説、例えば「目標を立てて生き生きと生きている!」にも「どうしてわざわざ」と思うのである。しかも、私はここでの疑問を「承認欲求ゆえ。」とつまらない理由に帰着させたくもない。なんというか、私はどうでもいいと思っているがゆえにか、それともただ単に能力がないからか、そこでの機序がわからないのである。

 わからないことはたくさんある。し、何がわからないかもわからないこともたくさんある。とりあえず集めておく。いつか繋がると信じて。そういう振る舞いを気色悪くないようにやってほしい。私はそう思うだけである。そしておそらくこのように言われた私は何も言わない。見つめるだけだろう。それで何かが生まれるか生まれないか、私は知らない。が、そうなることはわかるのである。
 ここに人生訓はない。あったとしたらそれは君のものである。そうあってほしい。私はそうは願っている。この願いはもしかすると、私の真なる願いなのかもしれない。

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