歌詞が急に聞こえてくるのはなぜか?

私は「私が考えたい100個の問い」という文章で自分が出した問いに答えることを暇なときにしている。その成果の一部がなんというか、「一緒に考えたいなあ」というふうな振る舞いをしていたので投稿することにした。ちなみに6というのは6個目ということであり、(→の後に書かれているのはよりよく問いを再構築するならどうするか?に対するその文章を書いたときのアンサーである。

「私が考えたい100個の問い」(興味のある方は読んでください)
https://note.com/0010312310/n/n4b73c014d91d?sub_rt=share_pw&d=s6cK9I8ZXqY

6→歌詞が急に聞こえてくるのはなぜか(→音楽を聞いていると歌詞が急に迫ってくる時があるのはなぜか)

答える前に聞きたい。みなさんは「歌詞が急に聞こえてくる」ときがないだろうか。普段は何気なく通り過ぎている歌詞、その意味が急にしんみり、染みてくるときがないだろうか。私はなぜ今まで気がつかなかったのか。そんなふうに思うときがないだろうか。私はある。

最近で言えば、

と言ってみたもののこういうことは思い出すのが難しい。いくつか好きな歌詞はある。「素直になれないなら喜びも悲しみも虚しいだけ」(レミオロメン)、「嘘言ってても真実ならいい」(OZROZAURUS)、「公園の片隅で一人 そのほかは夜風に揺られるみどり」(LIBRO)、「まわりの自分と手つなごうよ」(PIEC3 POPPO)、「優しさに触れるたび 私は恥ずかしい」(藤井風)、「遊ぶこと忘れてたら 老いて枯れんだ」(スキマスイッチ)、「宇宙の見えない夜 かまわない 君が見える」(久保田利伸)、「見つめ合うと素直におしゃべりできない」(サザンオールスターズ)、「絶え間なく注ぐ愛の名を永遠と呼ぶ事ができたなら」(GLAY)、「「アナタは私のほんのイチブしか知らない」 勝ち誇るように笑われてもそれほど嫌じゃないよ」(B’z)、「まっすぐなその優しさを 温もりを全部 返したいけれど 君のことだから もう充分だよって きっと言うかな」(秦基博)、「不愉快に冷たい壁とか 次はどれに弱さを許す?」(鬼束ちひろ)、「子供抱くヤー マイク握るワー 分岐する道幸あれ」(唾奇)、「売られてない喧嘩も買う」(Awich)、「誰もいない遊園地に立って お前ぼんやりこっち見てて 視界が汚れている俺とは違って お前の目澄み渡っていて ほろりほろり」(Tohji)、「お前が花なら花言葉なに?」(Bonbero)、「ちょくちょく用なく立ち寄るビレバン ノリで買ういらん雑誌 家じゃ開かん」(呂布カルマ)、「こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される」(木村弓)、「意味なんか ないさ暮らしがあるだけ」(星野源)、「Love is over ワケなどないよ ただひとつだけ あなたのため」(欧陽菲菲)、「この公園で見つけた あの星座なんだか覚えてる?」(大塚愛)、「君の笑い方はなぜか淋しさに似てた」(RADWINPS)、「朝目覚めるたびに 君の抜け殻が横に居る」(平井堅)、「麦わらの帽子の君が 揺れたマリーゴールドに似てる」(あいみょん)、「琥珀の弓張月」(aiko)、「真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いているんだ」(King Gnu)、「夏が来る 影が立つ あなたに会いたい」(米津玄師)、「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗きこんだ」(BUMP OF CHICKEN)、「私は私とはぐれるわけにはいかないから いつかまた会いましょう その日までさよなら恋心よ」(ポルノグラフィティ)、「描いた夢と ここにある今 二つの景色見比べても 形を変えてここにあるのは 確かなひとつのもの」(ROAD OF MAJOR)、「なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めましょう そんな気持ち分かるでしょう」(THE BLUE HEARTS)、「気づけば君の電話の着信僕かけ直せば出ないし 逆にその返事をくれた時にはもう圏外だし」(SEAMO)、「どこも行かないよ ここにいるけれど 見つめ合いたいあなたのその瞳」(青山テルマ)、「君の描く未来に 私はいるのかな 同じ空を同じ想いで 見上げていたいよ」(西野カナ)、「サイコロ転がして 1の目が出たけれど 双六の文字には「ふりだしに戻る」 君はきっと言うだろう 「あなたらしいわね」と 「1つ進めたのならよかったじゃないの」」(斉藤和義)、「寂しさ紛らすだけなら 誰でもいいはずなのに 星が落ちそうな夜だから 自分を偽れない」(山崎まさよし)、「見慣れてる町の空に 輝く月一つ」(エレファントカシマシ)、「五線紙みたいにぶら下がった 電線の上並べているんだ」(コブクロ)、「僕が生まれたこの島の空を 僕はどれくらい知っているんだろう 輝く星も 流れる雲も 名前を聞かれてもわからない」(BEGIN)、「会えない そう思うほどに 会いたいが大きくなってゆく 川のつぶやき 山のささやき 君の声のように感じるんだ」(桐谷健太)、「空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る」(中島みゆき)、「

なんというか、気分が乗ってた。「いくつか」って言ってたのにたくさん挙げてしまった。まあ、いいや。

このほかにもたくさんあるが、これらは幾度となくリフレインしている。私の人生において。しかし、そういうリストには入っていなかったのに急に入ってくる。その意味で乱入してくる。いくつかの経験がぎゅっと、そこに繋がる。リンクする。見えていなかった連関が見える。

そして、そのあとはリストに入るのだ。もちろん忘れられることもあるが「ああ、リストに入っていたな。」ということになる。次に乱入してきても。そういう歌詞。そういうのがある。

これは別に歌詞に限らず、詩歌でもそうだし、管弦でもそうである。突然あるフレーズ、それがリフレインし始める。経験の襞をなぞり、赤ちゃんが背中をせぼめるように、私はぎゅっと丸まる。

ある種の集合機能。いや、号令機能?そういうものがありありとしてくる。これまでも知っていたはずなのになぜか急に、なぜか急にありありとしてくる。それがなぜかを考えたい。

しかし、そもそもそれは何を考えることなのだろうか。「なぜ?」と言われても、別に理由なくそれがある気がするのである。

もちろん理由をつけることはできるし、それが楽しいのかもしれない。考えてみよう。

なんというか、ここで参考になるかもしれないのは、ある人、誰か忘れてしまったがある人が「人生の節目節目に同じ本を読む。そうすると自分の変化がわかるから。」と言っていたことである。しかも嬉しそうに。何かの文章で読んだのだと思うが、これは私もよくわかる。しかし、考えてみれば、「自分の変化がわかる」ことを目指すだけなら身長でも年収でも学力でも、別になんでもいい。その「変化」が成長でも衰退でも良いということはないかもしれないが、成長に限定したとしても別にどれでもいい。それなのになぜか、嬉しいのは、そしてその嬉しいと思っていることが嬉しいのは「同じ本を読む」ということによる「変化」の理解なのである。少なくとも私は。

迫ってくるときに感じる、歌詞が迫ってくるときに感じる、嬉しさのようなもの、流線が見えて綻ぶ顔、それはおそらくここでの体験に近い。と思ったが、案外遠い。というのも、「同じ本を読む」というのは流線が途切れている感じがするからである。しかも別にそれで困ったことにはなっていない。というかむしろ、流線が先にあって途切れるのが嬉しい感じがする。しかし、

なんというか、ここには線を引くことの嬉しさ、いや、線が引かれることの嬉しさ、そういう嬉しさと線が途切れる、バラバラになる、それでもその線は「自分」であることの嬉しさ、そういう嬉しさがある。ように見える。この嬉しさの裏にあるのは、裏にある同じものはおそらく複数性というか、そういう嬉しさであると思う。

しかし、嬉しさについてはある程度整理できたかもしれないが、「なぜ?」には応えていない。

いや、複数性を見出すことが快楽だから、という答えはあり得るかもしれない。しかし、私はここで少し不安になる。他人はこういう受容の仕方をしていないのではないか、という不安が私に訪れる。そもそも問いは問いですらなかったのだ。

しかし、私はそれでも別にいい。それならそれで私は自己析出としてこの問いを引き受けられるから。

もしそのような引き受けをするのなら、私の答えは結構明確で、同一性を安心して預けられるから、だと思う。

変化には同一性が必要である。その同一性はほとんどの場合個人[という概念及びその概念を支えるシステム:推敲者]によって担われる。しかし、別に作品でもいいのである。最小の作品はフレーズ、音楽でも詩でも、フレーズが最少の作品であろう。「同じフレーズ」。それが「同じ」を担ってくれる。だから私はすごく小さい変化もすごく大きい変化も、その間にあるたくさんの変化の形、それを愛することができるのである。それが嬉しいのである。

また、このことと関わっているのだが、異なる作品を渡り歩く、それが私なのである。ということになる。複数の作品を何度もリフレインするということは。

しかし、後者[=「また、」から始まる一つ前の文章:推敲者]はここでの問いに関係がないかもしれない。いや、ここでの問いに「同一性を安心して預けられるから」と答えるとするならば関係があるとも言えるだろう。「預ける」二つの仕方は作品に同一性を託すやり方と作品群の群性を生む私という個人[という概念及びその概念を支えるシステム:引用者]とは異なるやり方の二つであろうから。

しかしそもそも問いはどんなだっただろう。なんだかずれている気がする。ちなみに問いも一つの作品であると言えるかもしれない。

6→歌詞が急に聞こえてくるのはなぜか(→音楽を聞いていると歌詞が急に迫ってくる時があるのはなぜか)

結局答えていない。この問いによって考えたくなることはたくさんあるけれど、この問いに答えるのは難しい。

なぜ難しいのだろうか。それはおそらく「急に」だからだろう。別にどういうときにこれが起こりやすいということはない。なんというか、抽象的なことを言えば、少し疲れているとき、に起こることが多い気がする。しかし、それでも「疲れている」とはどういうことなのか?ということが問われうるだろう。しかし、それに答えたとしてもここでの困難はほとんど解決されない。「急に」来るのだから。

なんというか、とても個人的なことだとしてもそれゆえに普遍的なことなのだろう。この問いにおいて考えられることは。

そろそろ眠い。たくさんの歌詞を思い出して、それに埋もれて、私はとても、とても幸せな気がする。

春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず

中城ふみ子

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