読書はなぜ楽しいのか

 さて、今日は時間があるので一つ、私が気になる問い、トピックを抱き締めて、いや、一緒に布団に入ってお話ししたり眠って夢を見たり、それを見たり、笑い合ったりしてみたい。
 その問いというのは「なぜ読書は楽しいのか?」という問いである。トピックという言い方はとりあえず置いておこう。この問いはなぜ発せられたか。それをまずは確認しておこう。出会いを振り返るように。

 私は読書が好きである。読書の中でも特に純文学と哲学が好きである。何が純文学か、何が哲学か、と言われるとそれはそれで困ってしまう。とりあえずその二つが好きなのである。あと、割合に関して言っておくと、私は哲学書:文学=9:1くらいで読む。それぞれにも内訳はあるが、だいたいそういう感じで読む。別にここが重要なわけではないのでこれくらいにしておこう。と思ったが、好きな本くらいあげておこう。哲学書に関して好きなものは、と書こうと思ったが私はあんまり「これは哲学書として好きだ。」とか「これは文学として好きだ。」とか思わずむしろ、その「好き」の種類として哲学やら文学やらを考えているから好きな本をあげよう。最近読んだ(読み直したものも含む)もので言えば、と言おうとしたが私はあんまり通読したりしない、わけでもないが通読していない本も多いので「好きな本」と言えるかどうかはわからない。が、言ってみよう。ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』、朝井リョウ『正欲』、入不二基義『現実性の問題』、横田裕美子「わたし、変換器」、宇野邦一「哲学の奇妙な闘い」、志賀直哉『城の崎にて』、幸田文『姦声』、永井均『哲学探究2』、二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、千葉雅也『意味がない無意味』、レヴィナス「逃走論」、松本卓也『人はみな妄想する』、などなど。(『』と「」の厳密な区別の仕方がわからないので変な区別をしていたら許していただきたい。)最近読んだもの、そして著者一人につき一冊というルールで書くとこういうふうになる。こう見るとおそらく文学と呼ばれるものが意外に読まれている。ように見えるが、実はそうではない。おそらく。このルールで書けばこうなるというだけであり割合はおそらく、上で書いたよりも哲学と呼ばれるものに偏っている。
 ところで、ここまでの記述で一つややこしいことがある。それは、おそらく文学と呼ばれるもの、おそらく哲学と呼ばれるもの、と、私が文学と呼ぶものと哲学と呼ぶものではずれがあるということである。そしてそのずれというのは哲学も文学であり文学も哲学であるというような仕方ではなく受容する側が表現を文学として楽しむか、それとも哲学として楽しむか、という二つがあるという意味でのずれであるということである。つまり、私は割合について語っているときには「哲学と呼ばれるもの/文学と呼ばれるもの」という対比で「哲学/文学」を理解しているふうに書いていたのにもかかわらずここで私はその対比ではなく「哲学として楽しい/文学として楽しい」という対比で「哲学/文学」を理解しようとしているのである。それがごっちゃになってしまっている。このことを例えば作品とその受容というテーマで捉えるとすれば、ここでは作品がすでに分類されている上でそれぞれどれくらい読んでいるかということと作品が分類されていないから二つに分類するという実践の上でそれぞれどれくらい読んでいるかということとが混ざり合ってしまっているのである。そしておそらく、後者であると考えるならば割合は逆転する。つまり、私は哲学と呼ばれるものを文学として楽しんでいることがほとんどである。
 ややこしい話をしてしまった。し、別にする必然性はなかったと思う。が、そんなことを言っても始まらない。布団の中でそんな話はしない。したくない。というか、逆もある。文学と呼ばれるものを哲学として楽しむということもある。まあ、いいか。それぞれの楽しみを考えてみよう。

 文学として楽しむというのは差異を含んだ反復を楽しむということである。そして文学としての作品というのはその楽しむを支える場所、集合場所のようなものである。私はあまり「個人」ということが理解できないからこのように書くのはある意味で苦痛であり、ある意味で意味不明なのだが仕方なくそうするとすれば、私という「個人」は文学としての作品を繰り返し思い出し、その繰り返しの差異を楽しむのである。いわば、私は文学としての作品を通して私の変化を楽しむのである。さまざまな私は文学としての作品という集合場所に集まる。そして私はそこに私の多様性を見るのである。そしてその多様性は別に私という「個人」に集約されるのではなく作品に集約される。別の作品があればまた別の集約がなされる。それが楽しい。
 なんと言えばよいかわからないが、同一性を私が受け持つ必要がないから楽しめるのである。だから私は「個人」が嫌いであり意味不明なのである。いや、まあ、逆でもいいんだけれど。「個人」が嫌いであり意味不明だからそういう文学の楽しみを愛している、とも言ってもいいのだけれど。とりあえずこういう感じの楽しさがある。そしてそれを私は「文学としての楽しさ」と呼んでいる。
 これに対して「哲学としての楽しさ」というのは、極度に形式化するとすれば「E(A/B)/F(C/D)」における「A/C」という対応、「B/D」という対応、言うなれば類比的対応が反転するという楽しさであると言えると思う。いや、精確に言うなら、反転可能性が適度に保たれている楽しさであると言えると思う。つまり、「E(A/B)/F(C/D)」と「E(B/A)/F(C/D)」もしくは「E(A/B)/F(D/C)」が互いに適度に反転しあうことが楽しいのである。なんというか、具体例を挙げるととても長くなってしまいそうな気がするので簡潔に言えば、反転するという楽しさが哲学としての楽しさである。例えば、

 眠る。君は眠る。私はそれを見る。例えばその君の胸の上下によって広さと個人主義的傾向の関係が類比される。それは新しい類比の発見である。これはヴァレリーが言うところの「隠喩の失効」に似た楽しさである。これまでの人生(私はこの「人生」なるものと「個人」の関係がよくわからないとも言えるかもしれない。)がすべて前フリになるような楽しさである。
 ちゃんと書けていないことくらい私にもわかる。「文学としての楽しさ」を仮に「哲学としての楽しさ」の一つの形態であると考えるとするならば、「文学としての楽しさ」というのは安定した、つまり反転しない類比のもとで一方の対比がそれぞれに屹立している楽しさである。それに対して「哲学としての楽しさ」というのはその屹立同士の関係を解き放つ楽しさなのである。例えば、いやでも、なんというか、哲学は閉じているけれど文学は開いている。いや、閉じているからこそ開いているのである。そうでなければそもそも開いているがどういうことかがわからない。

 ああ、君が起きているのに気がつかなかった。対比のあり方ではどうなるの?

 ああ、うーんと、「文学としての楽しさ」では対比が重なることでじゅわりと蜜のような楽しさ、快楽が存在する感じ。それに対して「哲学としての楽しさ」では類比がねじれることでじゅわりと蜜のような楽しさ、快楽が存在する感じ。

 うーん、そうだとすると、最初の一つのことと関係して多様なものが存在する、みたいな像で見たときの「文学としての楽しさ」は誤解されやすいんじゃないかな。

 いやあ、その「像」はいいねえ。さすがウィトゲンシュタイン愛好者だね。まあ、それはそうとして、でも結局「重なる」が可能なのは同じ対比がそこで反復されていると思われているからだと思うんだよね。「哲学としての楽しさ」はそのことを理解しつつもう一度対比たちを解き放つというか、バラバラにしておくというか、そういう、そういう感じの楽しさだよ。もちろん、そこでは享楽と快楽が反転している。存在論的差異のように。だから、いやでも、だけど、存在論的差異の不完全性は完全的だよ。(これは筆が滑ったとも言えるが推敲者である私が解説しておこう。存在論的差異は「存在⇔存在者」という相互的な規定によって成り立つと考えるとするとここでの存在論的差異は「享楽⇔快楽」ではなく「享楽⇒快楽」という必然的な方向性によって成り立つと考えることができるというのがここで言われていることである。これは例えば、パルメニデスの詩において「ある」という真理が伝えられても「ある」と「ない」を混同する人間(の思い込み)によってしか理解できないということを強調した存在論的差異の解釈であると言える。これはおそらくラカンの「享楽」に深く関係する論点であるが私もよくわからないので今回は示唆にとどめよう。)

 あなたは私に話していない。あなたはあなたのあなたと私に話している。いや、私はこんなことを言わないね。

 そもそも文学は「何が何やら咲いている」(山頭火)だけれど哲学は「
 進んでみたけれどよくわからないや。なんというか、哲学はある意味で文学よりわざとらしい。文学はもっとゆったりした快楽だし、ゆったりした享楽だけど、哲学はなんというか、文学よりも新鮮な感じの快楽だよね。

 ところでさ、ここでのテーマは「なぜ読書は楽しいのか」だよ。これにはどう答えるの?

 うーん、とりあえず二つの快楽があるよね。くらいしかわからないね。

 まあ、たしかに。二つを仮に統一するとすればなにかな。

 うーん、生活にさまざまなスケールを見つけられる、みたいな感じかな。そして大抵はみんな忙しいから、忙しないから魅力的なアンサーとしてはゆったりしたスケールを知ることができるみたいな感じかな。

 また君は眠った。私はアガンベンが次のように書いていたことを思い出した。

イデアー要請ーは現実化されたものの眠りであり、生の睡眠状態である。あらゆる可能性がいまはただひとつの錯綜した状態のうちに包み込まれている。それは生をひとつひとつ展開し説明していくだろう。部分的には、すでに展開し説明してもいる。だが、一歩一歩と展開し説明していく過程で、イデアのほうはますます自分自身のうちに閉じこもり、錯綜の度合いを高めていって、説明しがたいものになっていく。イデアはそのあらゆる実現態のうちに未決定のまま残っている要請であり、目覚めを知らない眠りである。

『哲学とはなにか』(上村忠男訳)60-61頁

 ほら、少しずれてるし、これは何度も引用しているし、この引用文は反転している。イデアについての議論を。こういうのが読書の楽しさだよ。私は君ではなくあなたの肩を掴んで熱弁している。聞こえる人はいるのだろうか。
 さて、ここにはどういうトピックがあるのだろうか。それはあなたが決めることである。

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