今日は『現代思想』を読み漁ろう

今日は『現代思想』を読み漁ろう。三時間と少しくらい。休憩もたくさんして。

まず読むのは2012年の3月臨時増刊号、レヴィナス特集のなかから合田正人「解釈と倫理」である。

難しかったなあ。というか、何をしているのかがよくわからなかった。いや、わかったのだが、それを判定する基準が私のなかにはまったくなく、その端々からフィールする力が私にはなかった。そのなさが繰り返し示されるだけで、私はそれをひっくり返す力がなかった。

また、合田の書きぶりについて思うことがあった。私はそこに私の目移りするような文体の可能性を見たが、彼が見ているのは西洋哲学の響きであり、私はそれを見る力がないので、その目移りの誘惑性が私には作動しなかった。これはどちらが悪いということでもない。ただ単にそうだっただけである。

まったくわからないのではない。「ああ、そんなこともありましたね。」的なのであり、しかし映画のように回想シーンに進むわけではないのである。そういう感じで困っているのだ。

『思想』の六八八号に「御一読いたただければ幸いである」(「解釈と倫理」)ような論稿があるとのことなので『思想』を取ってこよう。今日は幸い、大学の図書館に居るので昨日みたいなことは起こらない。

昨日みたいなことについてはhttps://note.com/0010312310/n/nbeaa225ba3a2?sub_rt=share_pw(「ある男のある半日」)を参照。

『思想』そして『現代思想』が収蔵されているのは地下である。ほとんどいつも誰もいない。全人類が死んで私だけが書物を彷徨っているかのようである。

『思想』を探してもなかった。が、CiNiiで検索すると『理想』らしい。変だと思ったんだよ。『思想』の六八八号は結構前の年だったから。

私の早とちりが原因なのだろうか。それとも合田が書き間違えていたのだろうか。見つかったからどっちでもいいけれども。

階段を上り下りするだけでしんどい。一旦トイレでリセットしよう。45分くらい経った。読み始めて。

『理想』ってちゃんと書いてあった。足もなぜかその場所に向かっていたのだが、記憶だけが間違っていた。不思議な体験だ。身体は覚えていた話。そう言えばそう珍しくもない話だが、身体の記憶をそれこそ記憶していなかった。不思議な体験だ。

次に読むのは『理想』六八八号の合田正人「レヴィナスと解釈学論争」である。その前にトイレに行く。

トイレで少しだけ文章を書こう。お腹が痛いので。レヴィナス的な「顔」と解釈学的な「テクスト」の関係が気になる。「痕跡」と「テクスト」の関係と言ってもいいかもしれない。ただ、私は「顔」が気になる。キュビズム的な時間もしくは空間認識が思い出される。あの木、そうだあれは大学のなかにあった木だった。あの木の揺らめく葉たちの表情。

表情と「顔」は違うのだろう。おそらく。

さて、読もう。

なるほど、結構わかった。気がする。し、レヴィナスのそれこそ倫理的な態度は私のそれに似ていると言えば似ている気がする。過去の私が書いた作品を過去の私が書いたとされる作品にし、その作品をそれ自体として肯定しようとあくせく働くこと。そういう倫理。

もちろん、哲学史的な言及については正直よくわからない。が、「顔」が「痕跡」になることとしての「テクスト」みたいな態度、解釈学的な態度については(聖書が絡むところは正直よくわからないのだが)ある程度わかった気がする。し、それによって先ほどまで読んでいた文章もその解釈学的態度が何によって触発され、どのように展開するか、に関する考察の助けになるような『全体性と無限』前史的なものだったのだと理解した。もちろん具体的なところはよくわからないのだが。

一つ、合田がここで語っているレヴィナスの「顔」「痕跡」「テクスト」を辿る倫理について、私は一つだけ違う視点がある気がする。それは、「テクスト」に具体性を付与することをあまり目指していないということである。私は肉付けを目指しているというよりはむしろ肉付きが良い形としての「テクスト」みたいなものを保ちたいという、いわゆる保存とか紛失とか、忘却とか記憶とか、そういうことについて考えている気がする。まあ、ここに来る前に読んでいた千葉雅也「マラブーによるヘーゲルの整形手術──デリダ以後の問題圏へ」(『意味がない無意味』所収)における次のような指摘に影響を強く受けているのかもしれません。

マラブーに従うなら、出来事の痕跡は、変わってしまうかもしれない。ときには、爆発さえしてしまうかもしれない。以下は、あくまで僕の解釈による思考実験ですが、もしこの世界の流転において出来事の「同じもの性」が失われるのだとしたら、たとえばアウシュヴィッツをアウシュヴィッツとして反復することができなくなりうるとしたら、出来事に対する応答可能性=責任は、どうなってしまうのか──認知症的歴史哲学とでも言うべき問題です。デリダそしてレヴィナスにとって、出来事からの呼びかけが──どれほど誤配されようとも──反復をやめることはありません(それに対する応答可能性=責任は、レヴィナスにおいてはあくまで無限、デリダにおいては現実的に言って有限とされますが)。しかしマラブーは、彼らの大前提を崩してしまうように思われる。その方が、ある意味でリアリストなのではないでしょうか。とはいえ、全面的な無責任に開き直るわけではありません。ここにグラフィックなものとプラスティックなものの変換可能性という議論が効いてくる。無責任をリアルな大前提にした上で、準-安定状態において反復可能な痕跡がありうると認めるなら、それに対する応答可能性=責任は、やはりありうるわけです。ところが、別名へと変わってしまったものに対しては、連続した応答可能性=責任を持つことができない──だがそうだとしても、この変異体に対しなんらか抜き差しならぬ関係を持ち続けるとしたら、それは、たんに無責任であることを超過した、しかし応答可能性=責任でさえもないような関係になるでしょう。それを何と呼んだらいいのでしょうか。
『意味がない無意味』264-265頁

ここでの「グラフィックなもの/プラスチックなもの」という区別について言及すると「『現代思想』を読む」というプロジェクトからは外れることになりますが、眠くなってきましたし、そんなことを言うなら私はさっきまで『理想』を読んでいたので構わないでしょう。この区別について確認しておきましょう。一つのストレッチとして。(ちなみにこの「ストレッチ」という語の選択については解釈をどうしようもない身体の「凝り固まりと解れ」の関係から考えること、言い換えれば合田が「レヴィナスと解釈学論争」の冒頭で渡邊二郎の『構造と解釈』の「解釈」に対する語源的な指摘から「解釈」を「『間に立って繰り広げる』あるいは『間を繰り広げる』こと、これは一体どのような出来事、どのような行為、どのような過程なのだろうか。」(『理想』六八八号76頁)と問いを始めるところの「あるいは」を「と」に変えることを目指したものであると言える。が、こんなことに気づく人はいないと思ったので恥ずかしいけれども解説にしてここからの雰囲気を補足しておいた。)

ドゥルーズが言う生成変化もまた、他のものに変化することではありますが、おそらくマラブーの目からすると、ドゥルーズの言説は十分に具体的ではなく、脳の可塑性のような唯物論的次元をきっちり射程に入れていなかったと見えるのではないでしょうか。マラブーは、ドゥルーズの生成変化論から少なからぬ着想を得ていると思いますが、それをいっそう唯物論的な考えへと錬成し、かつそこに、爆発的破壊──を生き延びること──としての否定性というヘーゲル主義者ならではのアレンジを加えるわけです。
『意味がない無意味』248頁

ここで言われている「唯物論的次元」に「プラスチックなもの」は含まれていて、「グラフィックなもの」はこの次元に支えられることによって存在するものであると考えられます。そして、その「グラフィックなもの」をデリダや東浩紀を引きつつクリプキ由来の「固有名」の議論に引き継ぎ、それにレヴィナスを登場させて上のような倫理の問いかけを作っています。なので、整理すると、この「プラスチックなもの/グラフィックなもの」は「生成変化」に対する「ドゥルーズ/マラブー」、「固有名」に対する「デリダ≒東浩紀/マラブー≒千葉雅也」、「倫理」に対する「レヴィナス・デリダ/マラブー・千葉雅也」のように反復されているわけです。さらに言えば、「プラスチックなもの/グラフィックなもの」には「下部構造/上部構造」という大きな反復があって(このことは「マラブーの可塑的世界は下部構造であり、デリダの郵便的世界はその上部構造である。」(『意味がない無意味』263頁)と指摘されています。)、それが「生成変化」や「固有名」、「倫理」でそれぞれ上のような対比によって繰り返されて、私が最初に挙げた『意味がない無意味』の引用になだれていくわけです。

おそらく、私の予想が大外れしていなければ、私が合田の「解釈と倫理」を読んだときと同じような感じがあると思います。皆さんには。明らかにいま、私はあなたに話しかけています。私の「倫理」に対する見解を。しかしややこしいことにその見解にとって重要な「痕跡」には大きく分けて四つの見解があります。一つ目は合田の提示するレヴィナスの「顔」と「テクスト」に挟まれた「痕跡」、二つ目は私がその「痕跡」に対して「肉付き」や「表情」によって言おうとした「顔」が象徴的に示されている「テクスト」というあり方によって生じる「痕跡」、三つ目は千葉の提示するレヴィナスやデリダの「痕跡」、四つ目は千葉がマラブーと共に語る「痕跡」、この四つの見解があります。もちろん一つ目と二つ目、三つ目と四つ目はペアリングされていましたが、別にペアリングももちろん可能です。なのでみなさんの頭のなかにはとても単純に言って六ペアの可能性があるのです。もちろんペアに拘泥する必要があるかも分かりませんから、もっと可能性は広がるでしょう。これらがあって、おそらくみなさんは私の「倫理」に対する見解を理解できていないのです。理解できているとしてもとてもふわふわ理解しているのです。私が合田の「解釈と倫理」を理解していた、というか、理解していなかったときのように。ただ、それはひとえに私が合田がしているようにある議論を手触りを残しつつ切り分けることができていないからです。

ただ、私は結構満足しています。しかし、この満足を伝えるためにはあとどれくらい文章を書けばいいのかすらわかりません。し、これを忘れてはならないのですが、私は今日、「『現代思想』を読む」というプロジェクトを遂行するためにわざわざ母校の図書館に来ています。なので、今日はこれくらいでご勘弁願います。

では、次に何を読みましょうか。正直なことを言うと、私はこの「解釈と倫理」を読みたいと思ってここに来ました。なのでここからはゆったりまったり読みたいと思います。まあ、『現代思想』にそんな論稿があるのか?という問題はありますが。

ちなみに私は八冊も持ってきました。それぞれ紹介していきましょう。読みたいやつが見つかるかもしれないので。しかし、あと一時間半くらいしかないのですが。時間は。まあ、次の予定は遅れても大して文句は言われないと思いますが。

八冊、紹介するのが面倒くさいですね。休憩にもなりません。面倒くさいのはおそらく丁寧に書こうとしているからなので、適当に書きましょう。特定はできるように。というか、八冊も持ってきていて申し訳ない感じがしてきました。まあ、読む人がいるのかはわかりませんが。そもそも地下に人がいることがほとんどないので。なので、まあ、とりあえず書きましょう。六冊なおしに行きましょう。

ここからは「年-月-特集されているもの」という形式で書いていきます。月のところに☆が付いているのは臨時増刊号です。順番は適当です。いま左に積まれている順番。上からです。

2012-3☆-レヴィナス
2008-12☆-メルロ=ポンティ
2008-12-ドゥルーズ
2020-3☆-フェミニズム
2019-2-男性学
2015-1☆-見田宗介=真木悠介
2015-5-精神病理
2015-2☆-デリダ

この席にこの八冊を持ってきたときに一応全部の目次は読んだんですよね。で、ある程度は目星をつけていたんですよね。ただ、それらはおもしろそうだから目星をつけられたわけで、つまり、そのなかから選ぶきっかけがないんですよね。選んでから理由をつけることはいくらでもできるのですが。

トイレに行きましょう。手を洗いに行きましょう。目をつぶって積んでいる順番を変えました。なのでトイレで上から何段目のものかを決めればそこからはなんとかなるでしょう。

三段目の一つ目に目星をつけたものにしましょう。偶然というのは、運というのは、運命というのは偉大ですね。じゃんけんも。

決まりました。フェミニズム特集の横田祐美子「フェミニズムは哲学の遺産をどのように継承するのか 脱構築と女性的なものをめぐる思考」です。では、読みましょう。

極めて整理されていて、極めてわかりやすい論稿だった。爽やかだった。どこの接続を考えても軽やかであり、怜悧という言葉が似合うような論稿であった。ただ、触発されるところは正直なかった。謎でもなかった。つまり、私はこの論稿によって欲望しなかったのである。考えることを。感じることを。

と、書いてみたが、ここで言われている「古名」の戦略については上で考えたような「固有名」「別名」など「名」の系譜で考えることができるかもしれない。また、それは「同じもの性」の系譜とともに、もしくはそのなかに位置するものであり、「女性」と「女性的なもの」の関係は「同じもの」と「名」の関係として考えることができ、その二つの関係性を「署名」や「個人」と言った問題系によって考えることもできるだろう。ただ、正直やる気は出なかった。これはもっぱら私の責任であり、横田の文章はやはり素敵だと思った。

では、もう一つ読もう。シャッフルしよう。眠たい。が、寝ている時間はないのでぼんやりしつつも読もう。もしかするとぼんやりしていて触発されなかったのかもしれない。

シャッフルをした。目を逸らした。いや、手で隠した。積まれている本の山。あ、八冊も持っていてもいいのか?という問いに答えを出していなかった。まあ、いいだろう。いいことにしよう。借りているのと同じだから。状況としては。

さて、上から六つ目の二つ目のやつにしよう。今回は。

あれ、合田正人の「解釈と倫理」だ。もう一回読むのはさすがに嫌だなあ。正直言うと。私の倫理は再読を極めて重要なものとして考えていると思うけれど、実際私はあんまり再読しない。その矛盾がありありと示された。が、読みたくはない。もう一回シャッフルをしよう。仕方がない。

もう一回読めばもっとわかるかもしれない。けれど、通信制限がかかっている感覚がある。あそこには。倫理。仕方ない。もう一度運命に身を任せよう。前のように純粋には任せられないかもしれないが。

上から二番目の一つ目にしよう。左目を押さえている。見えない。単純なことだが不思議と言えば不思議だ。

びっくり。レヴィナス特集だ。ただ、一つ目は合田正人と村上靖彦の「外傷と病理の哲学へ」という対談なので読むことにしよう。ただ、私の上での欺瞞の可能性が俄かに囁かれている。倫理のことが書いてある可能性が高そうじゃないか!と。たしかにそうだ。ただ、それは解像度が低い。ということにしておこう。言い訳。そしてそれが言い訳になるシステム。あと一時間くらいある。

さっきまでは読み終わってから書くスタイルだったが、今回は眠気覚ましにいつものように読みながら書くスタイルにしよう。いつも眠たいみたいじゃないか。いや、まあ、いつも眠たいのかもしれない。

具体的な感触によって哲学を始めるものと形式的な洞察によって哲学を始めるものとがいるのかもしれない。レヴィナスを研究する人は前者の人が多いのだろうか。そんな気がする。38頁。頁数書くことにします。引用は、しません。とりあえず。

雲がやけに立体的に見えて驚く人と雲がやけに平面的に見えて驚く人とがいるだろう。私はどちらにも驚いたことがあるが、それは前フリを平面もしくは立体として描き出すということであり、そのこと自体が示唆されている気がする。レヴィナスには。このことを考えたのは頁とかではなく39頁の区切りのいいところで窓から外を見たときに思い出したことから考えたことである。二日前くらいに立体的すぎる雲にびっくりした私に言葉を与えた。

私は過去の自分を否定しない。し、肯定もことさらにはしない。しそうになったが。合田が「他者を語らない」(40頁)と言っているところあたりを見て。

頭を打たれたような衝撃を受けるためにはどうすればよいのだろうか。これは極めて難しい課題だ。私たちはデジャヴ的に認識してしまう側面を間違いなく持っているのだから。「それが言いたかったんだ!」と言って自分の感性やら思考やらを微かに否定する。そんな側面を間違いなく持っているのだから。けれどその一面は考え始める、感じ始めるきっかけにもなる。そういう勘違いとすら言いにくい勘違いからしか私自身の可能性は引き出されないのだから。40-41頁。

ヤンポルスカヤの論稿おもしろそう。「メシアとは私である」って、ずっと考えている気がする。私。42頁。

浮いたところを作らないというのと「どうしてもこうするしかなかったのだ」と言い切ること、この二つの微妙な関係。42頁。

私はなぜ私の発した言葉の来歴を知るのが好きなのか。いや、より精確に言えば、来歴を横に書き記すのが好きなのか。想像的に書き記すにしろ実際に書き記すにしろ。43頁。

思想史という愉しみ。一つ前の文章からそれほど続いているわけではないかもしれないが、私はそういう愉しみを知っている。というか、そういう愉しみを表現しているのがわかる。それが勘違いだとしても、私はそれを知っているのである。合田が自身を「二流思想史家」(48頁)と言っている。私はそれが事実なのか、まったく判断できないが、思想史的な愉しみと自己が襞としてなぞられる、なぞられることで襞になり自己になる、そんな感じのダイナミズムはそれほど思想史家とそれほど離れているものなのだろうか。まあ、「愉しみ」とかじゃないと言われればたしかに私は二流、というか、三流ですらない気がするが。48頁。

この論脈に合田の「解釈と倫理」も「レヴィナスと解釈学論争」もあるのかもしれない。この見立てこそが私の愉しみであるのかもしれない。たまたま気がついた。運命的だ。50-51頁。

そうか。私にとっての「作品」、簡単に言えば「過去の私」が書いた「作品」は「対面している他者」ではあり得ても「糧となり得ない他者」にはなり得ないのか。いや、なり得ないというよりもなり得ないように見えることと実際になり得ないことが現実的に区別しにくいのか。そんな感じするなあ。52頁。

なるほど。「欲望/欲求」と「糧となる他なるもの(autre)/そうでない他者(Autrui)」が重なるのだとしたら、少なくとも私は「作品」でその重なりが二つの対比のあいだでねじれている、それも重なり合うようにねじれているのか。なるほどね。だから私は「作品」への態度に倫理の問題を見やすいのか。なるほどね。52頁。

私と合田の近さと遠さについてぼーっとしていたのだが、おそらく私は「欲望/欲求」の問題がよくわかっていない。言うなれば「欲すること」がなんなのか、どういう構造にあるのか、それがわかっていない。し、「欲望/欲求」という二元論もまるでわかっていない。それは勉強不足ももちろんあるのだが、もっと根本的なものであるように思われる。しかし、このことについて私はこの人の議論を見てみようという候補が正直いない。ので、その意味での近さを合田に感じている気がする。52-54頁。

「私自身は『ある』を統合失調症などと結びつけて考えてみたいと思っているのです。そこで問題になるのはレヴィナスだったら倫理と呼ぶような具体的な対人関係が、得体のしれない恐ろしい他者性の切迫へと変容してゆくという両者に共通の仕組みです。」(54頁)なるほど、私の倫理が切迫から無縁なのは、いや、無縁であるように見えるのは、この「仕組み」があらかじめブロックされているからか。プロテクトされているからか。私の倫理の話が。しかし、その裏には実はこの「仕組み」の恐ろしさを感じている私もいる。少なくとも私にはそのように思える。どんどんいろいろなものが集まってきている。ちなみにこの対談は2012年のものだから2023年に出版された『傷の哲学、レヴィナス』ではおそらくこのあたりのことが論じられているのだろう。読んだはずだがこのあたりのことは思い出されない。触発されない。読み直しか。苦手な読み直し。54頁。

もちろん、個人的な資質の話だと言うのならそれまでである。それは一つの有限化で、それは私が好きな「私とあなたは違う」と言う、一つの仕方であると思う。それ自体も享楽的ではある。54-55頁。

「壊れものとしての人間」(55頁)という表現で思い出した。『傷の哲学、レヴィナス』は2012年8月出版の『レヴィナス 壊れものとしての人間』に増補を加えたものだった。なんとなく、増補版であることは覚えていたのだが急に思い出した。Amazonで調べて目次を見た。明らかに増補版だとわかった。ただそれだけ。55頁

「今は統合失調症というよりはPTSDを組み込んだ議論として読もうと思っています。」(56頁)ありゃ、少し離れてしまった。「私とあなたは違う」から。木村敏などは少しくらいは知っているからチャンスだと思ったのだが。まあ、別にそれほど大したことじゃない。というか、大したことだと思えないのが私の病理性なのかもしれない。56頁。

ロゴザンスキーの論稿もおもしろそう。「誇張法」。自己防衛としての「誇張法」、もしくはそれを用いた倫理の構想。装置。妄想。両端。56頁。

めちゃくちゃ面白かった。レヴィナス自身への理解も深まったし、レヴィナスの可能性もたくさん感じた。途中から少し遠慮していた(もう45分くらい過ぎている。次の予定の時間を。)が、たくさん触発されることができた。外では蝉がピリピリピリピリと鳴いている。極めて機械的な反復。Red Bull 64 Bars。ACE COOL。RAMZA。この九つの本を片付けて次の予定に向かおう。その前にトイレに行こう。

病的な存在としてのレヴィナス。それはとても魅力的だが、その魅力がその病的なところに由来するのか、「病的な存在としての」という限定に由来するのか、それはわからない。まあ、わかるのかがわからないが。

まあ、私は「どうしようもない」ということが好きなのだと思う。どうしてもそのように受容したり表現したりせざるを得なかった。そういう振り返りが好きなのだと思う。そういう形式がエネルギッシュになってしまうのだと思う。私は。

図書館の方に片付けてもらうのが申し訳ないのであの、誰もいない地下に行こう。九冊持って。結構重たいんだよなあ。

よし。返した。ぎゅうぎゅう詰めだった。

利用証を返そう。外、暑い。音圧がある。ピリピリ鳴っているだけじゃなかった。

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