感動を呼ぶものより感動が呼ぶものを

感動。
それを生むものは無限にある。
僕であれば、道を歩いている時の木のゆらめき、これこそ感動の最たるものである。
友達に聞いてみると、好きな映画のシーンはいつみても感動する。らしい。
僕は不思議だ。感動を生むものはたくさんあるのにもかかわらず、その感動そのものが論じられていないことが。
感動、それは皮膚感覚である。刺激ではない。皮膚感覚である。
僕はそれをいつの日からか直感しているのだが、それは間違いでない。どんな推論よりも正しく思われるのだ。疑うことさえできないものなのだ。
感動とはそもそもそんなものである。個人的なものである。万人の感動もなければ、万人の無感動もないのだ。全ては感動しうるし、されうる。感動は開かれたものなのだ。
感動はよく主客未分の現象だと言われる。映画などをみて感動するのは感情移入によって感動が共有されているからだ。
だが、この論理には疑問が付与してしまう。ならば、その感情移入された人物の感動はなんなのか?と。
主客未分というのはある意味ずる賢い論理である。それが未分であることは示すのに、その未分である一つのものに対しての思考をやめてしまうからだ。
だが、その主客未分という発想は極めて、それこそ肌感覚に近いものがある。
では、感動とはどのように表現すれば良いのだろう。主客未分でなければなんなのだろう。
僕はそれに一応の答えを見つけた。それは、未分になった主客のなかのどちらかを選んで感動している。ということである。
それは主客未分とは言わないのではないか、という意見はごもっともであるが、未分であるからといって同一であるわけでもない。その微妙な臨界点を感動を生きているのだ。
つまり、感動とは未完成な主客未分状態への感応に他ならないのだ。
感動が人生に不可欠なのはそれに人生に対する選択が知らぬ間に孕んでいるからである。だから、感動のために人生を滅ぼす者もいる。芸術家は自分を滅ぼす。それはなぜか、彼らは客の方を選んでしまうのだ。だから、本当の実物的な自分を放棄しても良いと考えてしまうのだ。
だが、感動は不可欠だ。それは間違いない。感動のない人生は自主的選択のない人生である。それはロボットである。人間とは選択する生き物なのだ。
主客未分の主客を選ぶ、その感動の作法を知れば、これからの人生に深みが出ることは自身の肌感覚を信じれば分かることである。
感動を提供するためにまずは自分を感動させる。その後に万人の感動がある。それは当たり前のことなのだ。
感動。
それは人生の選択そのものをはらむ。ぜひ、感動するような出会いが皆さんにありますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?