評価軸の話

「評価軸が他人から自分に変わりました。なので○○。」みたいな文章がたくさんある。しかし、私は思うのだ。「評価」はそもそも外からなされるものであるし、「自分」はそもそも「他人」の集まりなのではないか、と。これらを凝縮すると、こういうふうに言うことになりそうである。「その変化は自分と他人を内と外で捉えなくなったということではないか。」と。

ここで「捉えなくなった」を「反転した」などと言わないのは工夫である。仮に綺麗に「反転した」のだとすれば、それはむしろ「評価軸が自分から他人に変わりました。」ということなのではないだろうか。私が言いたいのはそういうことではない。仮に「評価」が外からなされるものだとして、それはそれで私はいいのだが、問題は「自分」と「他人」はもっと混濁しているのではないか、ということである。混ざって濁っているのではないか、ということである。しかもあらかじめ「自分」と「他人」が截然と分かれていてそれらが混ざるわけでもないのではないか、ということである。また、濁るのは「自分」か「他人」が原因でそうなるのではなく「自分」と「他人」が混ざっていることになったときだけ濁っていることになるのではないか、ということである。

「評価軸が他人から自分に変わりました。なので楽に創作ができます。」みたいな言説をいくつか見た。しかしそもそも「自分」は「他人」がいるからいるのだからその変化がどういう変化なのか、実はよくわからない。だからおそらく、精確に言うとするならば、「評価軸」が「自分」と「他人」を比較するものじゃなくなった、ということなのではないかと思う。

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