読書はなぜ楽しいのか 2

 「読書はなぜ楽しいのか?」という問いについて先ほどある程度こたえた。応えた。ここからはそれに答えてみよう。
 ここで用いるのは享楽と快楽の差異である。ヒントは「読書はなぜ楽しいのか?」という問いに応えたあとに読んだ『ラカンと哲学者たち』の中にあった。

快原理が課すリミットを越えないことこそが欲望の日常を定義する。それは、私たちを享楽から隔てる見えない壁のようなものだ。だが、これはあくまで欲望の一面である。ラカンがカントの道徳法則の峻厳さに見いだしたのは、欲望のもうひとつの顔、致死的な享楽へと主体を向かわせる命令の残酷さにほかならない。

『ラカンと哲学者たち』122頁

 ここで言われていることはカントが自らの道徳法則についての議論の際に「快楽/法」という対比が成り立つためには「道徳法則の峻厳さ=致死的な享楽」がそもそも存在している必要=それが存在しなければそもそも私たちの「日常」が存在しない必要=「峻厳さ」や「致死的」であることがそれとして存在しない必要があるということであると考えられる。私はこれをおそらくは『センスの哲学』の議論やそれに関わる『意味がない無意味』の議論を参考にして次のように書いた。

そう考えるとすれば、「快原理が課すリミットを越えないことこそが欲望の日常を定義する。それは、私たちを享楽から隔てる見えない壁のようなものだ。だが、これはあくまで欲望の一面である。ラカンがカントの道徳法則の峻厳さに見いだしたのは、欲望のもうひとつの顔、致死的な享楽へと主体を向かわせる命令の残酷さにほかならない。」(『ラカンと哲学者たち』122頁)と考えるとすれば、リズムのやたらな同質性とリズムのなさへの同時的な拒否こそが読書の快楽の正体であると考えることができるかもしれない。

2024/4/27「キミラシネ」

 ここにある対比は「リズム感(リズム感がある/ない)/リズム(リズムがある/ない)」という対比である。この二つの対比とそれを「二つの対比」にするリズムが失われることが「読書の快楽」における享楽である。ただ、少し違うのはここでの享楽はなんというか誘惑的ではないということである。つまり、そこには「死」のような峻厳がないのである。だから、実はここにはまた断絶があるとも言える。が、見取り図はこれで充分である。

 この見取り図によって「読書はなぜ楽しいのか」に示された一応の解答をより深く理解することができる。そこで示されたアンサーは次のようなものであった。

[仮に「読書はなぜ楽しいのか」にアンサーするとすれば:引用者≒著者] 生活にさまざまなスケールを見つけられる、みたいな感じかな。そして大抵はみんな忙しいから、忙しないから魅力的なアンサーとしてはゆったりしたスケールを知ることができるみたいな感じかな。

「読書はなぜ楽しいのか」

 ここではあたかも「生活にさまざまなスケールを見つけられる」が「ゆったりとしたスケールを知ることができる」だけではないアンサーであるように語られている。言い換えれば、そのようなアンサーになるのは「大抵はみんな忙しいから、忙しないから」であると語られている。しかし、これは焼き増しでもあると思う。もちろん焼き増しではないアンサーなどないと言えばそうなのであるが。
 ここでこのアンサーに付け加えることがあるとすれば、「ゆったり」というのは「忙しい」とか「忙しない」とかだけではなく「ゆったりしすぎている」こと、もはや繰り返しがそれとして存在することさえできないようなことにも対比されているということである。上の文章を書いているときもこのことは念頭にはあったが結局私も「忙しない」ためにアンサーを急いだのである。(まあ、急がないアンサーなどないと言えばないのだが。「忙しない」ことによってしかアンサーはあり得ないと言えばそうなのだが。)
 このことを考慮した上で「読書はなぜ楽しいのか」で提案されていた「読書の楽しみ」である「文学としての楽しさ/哲学としての楽しさ」という対比を理解するとすればおそらく次のようになるだろう。
 「文学としての楽しさ」というのは「リズム感がない」から「リズム感がある」に移行することを指している。それはつまり、「強弱がない」から「強弱がある」に移行することを指している。その移行は大抵「強調する」で理解されるだろう(これは別に「弱調する」ことがあり得ないということではない。ここには存在論的な問題があると思う。ここでは触れられないが。)からその「強調」が一つの作品をそれにするのである。そして、このことを手がかりにするならば、「哲学としての楽しさ」というのはここでの「一つの作品」を「作品」ではなく「一つの作品」として言わば複数化する楽しさであると言えよう。これは言うなれば、多点≒多面≒多体≒多次元におけるスライドの楽しさである。これを一方向的に見るかどうかは議論が必要だが、ここで仮に見ないとすれば「文学としての楽しさ」はおそらく次元から点に向かう運動における楽しさであり「哲学としての楽しさ」は逆の楽しさであると言える。(ただ、ここで「強調」しておきたいのは「文学としての楽しさ」と「哲学としての楽しさ」を「スライドの楽しさ」で見るとすればこうなると思われるということである。ちなみにバレていないかもしれないが「一/多」という対比はここでは「点≒面≒体≒次元」という家族的類似性(ウィトゲンシュタイン(に対する入不二の解釈))によって撤回されている。おそらく存在論的な議論においては「一/多」が主題であるとは思うのだが、まだ時期尚早と見て今回はずらしておいた。というか、勝手にずれていた。)
 こう考えると、私が「読書はなぜ楽しいのか」でなぜか問わなかった「楽しさとは何か」という問いに応えられるだろう。ある程度は。
 楽しさというのは均衡することである。強すぎず弱すぎず、しかし、強弱はある、というようなことが楽しさである。だからのっぺりしすぎたり存在しすぎたりしてはいけないのだ。それは上で言うところの「享楽」の峻厳さに至ってしまわないようになんとかするということである。もちろん、これは疑似的な反復であるとも言えよう。その危険なことの。つまり、これは危険な遊びにすぎないとは言えよう。が、その遊びは活性化するのだ。峻厳さ、「享楽」を。つまり、読書自体が生活に思い出させるのだ。「享楽」の次元、物体、地平、存在を。

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