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オープン・リレーションシップという恋愛スタイル

オープン・リレーションシップ恋愛小説という触れこみの小説が目に入ったので、近ごろ話題になっているポリアモリーと関係があるのかもしれないと思い、『私の最高の彼氏とその彼女』を読んでみた。
ちなみに『僕の狂ったフェミ彼女』と同じ著者です。

読む前のタイトルだけを読んだわたしの率直な感想
・オープン・リレーションシップ……?いわゆるヤリチン/ヤリマンなのでは……?
・「最高の彼氏」に彼女がいるって時点で次善になってしまい最高ではなくなるので、タイトルは一行で矛盾しているのでは?

参考


あらすじ

主な登場人物は以下のメンバー
ミレ(主人公)
シウォン(イケメン)
ソリ(シウォンのパートナー)

シェアオフィスで働くミレは、オフィスマネージャーであるシウォンのことが気になっていて、ある日オフィスの合同懇親会でシウォンといい感じになったときに、彼から「僕、オープン・リレーションシップの関係にある恋人が一人います」と言われてしまう。
ミレはシウォンのパートナーであるソリも交えて3人で会い、オープンリレーションシップについて話し合う――

感想(ネタバレ含)

シウォンとソリの関係性において、最初にオープンリレーションシップを言いだしたのがドイツ育ちのソリの側で、作者はそこで女性の主体性を表現したかったのかもしれない。(もしシウォンから言いだしたのなら「よくあるだらしない二股男じゃん」という悪いイメージになりそうなので)
で、ミレにソリとシウォンの2人がかりでオープン・リレーションシップの良さを説く以下のようなセリフがなんとなく詭弁っぽくて、あやしい勧誘のようだった。

・「誤解してる人も多いんだけど――オープン・リレーションシップって、他の人と付き合いたくてするものじゃないんです。今の相手と、長く付き合うためのものなんですよ」(p.74)
・「友達は一人じゃないでしょう。Aのことも好きだし、Bのことも好きだし、それぞれとの友情がだんだん積み重なって、それぞれに対する“好き”があって。それが自然ですよね。家族もお母さん、お父さん、お姉ちゃん、妹、みんな好きだし。もちろん人間という種の特性上、『ママとパパどっちが好き?』みたいな質問をしたりもするけど、それって片方だけしか好きにはなれないという意味ではないですよね」(p.74)
・「誰かを好きな気持ちがどんどん大きくなるのに、思いっきり好きになりたいのに、今の恋人との義理のせいでそれを無理して諦めたら、お互い幸せになるための恋愛なのに、恋人のせいで幸せになれないことになる」(p.76)
・「その代わり、恋人に他に好きな人ができたというのが、もう自分を好きではなくなったという意味ではないという、相応の確かな信頼がないといけません。恋人同士の信頼というのは、付き合うことが決定した瞬間に完成する者ではないんです。努力し続けて、話し合い続けて、終わりのないアップデートを繰り返していくものです。オープンではない関係にも必要なことだと思います。そういう努力もしないうちに、自分以外の人を好きにならないから、ただそれだけが本当に自分を愛している証拠だ、というのは正直……怠惰なだけだと思います」(p.80)

『私の最高の彼氏とその彼女』

オープン・リレーションシップとポリアモリーは若干違うようで、作中でその違いが書かれていてどちらかというとポリアモリーの方がより深い関係らしい。(知らんがな)

もちろんミレも、オープン・リレーションシップについては聞いたことがある。いつも次善だけが許されるロマンスの悩みと渇きが、まるで人生の課題のようにつきまとっていたため、この分野のトレンド(?)には人一倍敏感だったからだ。これと類似するもののうち、最も有名なのが“ポリアモリー”、つまり“多者間恋愛”だろう。映画『妻が結婚した』に出てくるような。これはどちらも“なじみのない西洋の文化”なので、まだ国内で正確に分類され、定義をまとめたものや活用形を見つけるのが難しいことは事実だ。だが、少しの検索と、数回の翻訳サイトの使用を通してミレは、真剣な恋愛関係を複数人と結ぶという概念がよりはっきりした“ポリアモリー”に対し、“オープン・リレーションシップ”はもう少しゆるく、独占恋愛ではない全てのものを称する包括的な概念に近いと理解していた。

『私の最高の彼氏とその彼女』p.52~p.53

(「真剣な恋愛関係を複数人と結ぶ」は矛盾なのでは……?)
(パートナーの不誠実さを指摘して「オープン・リレーションシップ」という言葉に言いくるめられちゃう人は心配になる)

もしシウォンがイケメンじゃなくてもミレは同じように関係を築こうとしたのかな?
正直言ってイケメンとやってみたいからオープン・リレーションシップの条件を呑むみたいなところあるんじゃないの~~~?(疑いのまなざし)
今どきっぽい横文字の言葉で誤魔化さずに、自分の性欲に向き合って、正直になった方がいいと思う。
例えば素直に「色々な人とやってみたいから正式な関係じゃなくてお試しでいいかな?😃 」とか言ったほうがまだ自分の欲望に正直で誠実に思える。

あと感情は自分の予想通りにはいかないだろうし、後から考えが変わることなんていくらでもあるし、何でもかんでも計画して理性的に振る舞うのは無理があるのでは。

ソリとシウォンとミレの3人で飲みに行って、女同士で「私たちはシウォンオフィシャルファンクラブの会員で〜」「そうですよ。オッパ〜サインください」とかいう会話が始まってめちゃくちゃシュールだったんだけど、オープンリレーションシップを同担OKみたいなノリで解釈するのはシウォンの意思や感情を無視しているように思えた。

「みんなが一対一でだけ恋愛をしないといけないなら、すでに恋人がいる人とは付き合えないけど、オープン・リレーションシップならそうじゃないでしょ。魅力ある人をシェアできるんだよ。ほら、シェアサイクルみたいに

『私の最高の彼氏とその彼女』p.95

こういう「シェア/共有」という概念は、結局、恋愛関係を「所有 or not」という軸でしか考えてられなくないか?それに、相手をモノのように扱ってしまっているのではないかと思う。

ソリとシウォンの交際記念日とミレの誕生日が同じ日でどうするか話し合った結果、3人でドライブで小旅行(そんで誰も手も繋がない)というイベントもあって、3人はこれで良かったの??
決断できないから3人で会うみたいなことになってない?
じゃあ今後セックスも3人でするんですかッ?!(混乱)

その後、オフィスのSNS掲示板に何者かによって「シウォンが二股かけていてオープン・リレーションシップという名目で両方の女性にガスライティングしてる」というタレコミがされたことをアウティングって表現していたのが斬新だった。
二股のように世間体が悪いことを暴露されるのをアウティングというのだろうか。
てか高校とか大学の学生時代ならともかくとして、職場の誰がプライベートで二股かけてようが心底どうでもいいわ……

「デートメイト」という言葉も出てきて、その意味が「デートやキスまでのスキンシップはするが、恋愛感情も体の関係も持たないライトな関係のこと」らしい。
恋愛感情が無ければデートやキスしないと思う。なんなんこの矛盾の塊のような新語は。もはや先鋭的過ぎてついていけない。

最後の山場は、ソリが仕事でドイツのフランクフルトへ異動になって、シウォンも一緒に行くか誘われ、ソリorミレのどちらかを選ぶ雰囲気になり――みたいな感じだった。
ソリがシウォンだけじゃなくてミレにもドイツ行きを打診してたのが何様かと思った。人の人生を何だと思ってるんだろう。

オープン・リレーションシップやポリアモリーに利点はあるのか

恋愛感情はいつまでも長続きしないし、恋愛感情がなくなった後に残るのが人としての信頼関係だと思うので、「オープン・リレーションシップ」や「ポリアモリー」は最初から重要なところが欠けてるのではないか。
心を乱してくるパートナーならいないほうがマシだ。
あといつまでも若くて健康だったらいいのかもしれないけど、年老いて健康にも問題が出てきた時に頼れるのは、地道な信頼関係を築いてきた間柄なのでは?

オープン・リレーションシップは、長続きさせる目的のように見えて実際には選択とそれに伴う責任を先延ばしにした刹那的な恋愛スタイルなのかもしれない。
その刹那を積み重ねていったら「長続き」という結果になるのだろうけど(「刹那を積み重ねて永遠」だなんて陳腐な歌詞みたい!)、必要な労力はメジャーな従来の恋愛スタイルと比べてかなり大きいだろうし、あえて困難な道を選ぶメリットがよく分からない。
わたしは静かに暮らしたいよ……

「心の平穏」をなによりも優先する吉良吉影も複数恋愛には関心を持たないだろう

個々人の差を考慮したとしても、社会文化的に男性と女性はまだ完全に平等とはいえないため、異性愛者の恋愛が完全に平等になることも難しい。それはどちらか一方が悪いわけではない。個人がそうであるように、カップルも社会の中にいるので、彼らの関係は百パーセント二人の関係そのものだけで成立しているわけではないからだ。二人の関係は彼らの周囲の人たちと社会の張力の中に存在する。これは客観的な統計からロジカルに結論づけることのできる、ニュートラルな事実だ。

『私の最高の彼氏とその彼女』p.129

普段から同意していようがいまいが、社会文化的に浸透している固定観念の影響から完全に逃れることは、やはり難しいことなのだ。だがそれと同時に、ミレは自分の意志で一線を超えることをひとつづつ試みている。そしてそれは、とても気分が良かった。

『私の最高の彼氏とその彼女』p.311

現在の男性優位社会においてオープン・リレーションシップとかポリアモリーは女性の方にメリットがなさそう。
女性からしたら「主体的な性の解放」なのかもしれないけれど、男性からみれば昔ながらの「妾」「愛人」システムからそれに伴う責任を差し引いた、いいとこ取りの関係と何が違うのだろう。
ミクロだとまるきり新しい概念で挑戦的なように思えて、男性優位社会が維持されたままのマクロでは旧来のザ・家父長制システムに回収されてしまうのは皮肉のように思える。

もしこの社会が、よしながふみの『大奥』のような状態(=男性の大部分が病気で死亡する)とか母系制だったら、オープン・リレーションシップは女にもメリットがあり得るのかもしれないが、わたしはそういった文化や環境で生きたことがないから分からない。

最近、荻上チキさんがポリアモリーに関する本を出版した。

彼はかつて不倫していたことが2016年に「一夫二妻生活」と報道されていたので、なんだか複雑な心境になる。

セックスという領域が女性にとって意味するもの

最近読んだ『はじめてのフェミニズム』にこういうことが書いてあった。

セクシュアリティの研究者キャロル・ヴァンスが1994年に記していたように、女性のセックスは「制限や抑圧や危険の伴う領域であると同時に、性の探求や歓びや主体性の領域」でもあります。だから、フェミニストが「歓び」の面だけに注目すると、男性による暴力や抑圧という現実を見逃しかねません。いっぽう「危険」だけに注目すると、女性が積極的に求め楽しむものとしてのセックスを無視することになります。フェミニストならまずだれもが同意するでしょうが、セックスにはこの二つの側面があり、フェミニズムはその両方を扱わなければならないのです。

『はじめてのフェミニズム』p.131

上記にある通り、セックスが「制限や抑圧や危険の伴う領域であると同時に性の探求や歓びや主体性の領域」であることは事実だと思う。

しかし、セックスの結果としての妊娠は決して無視できないし、女性にとっての妊娠は、中絶するにしろ出産するにしろ、人生に与える影響が大きすぎるのが現実問題として存在するので、わたしは主体性よりも危険性を重視する慎重な姿勢をとったほうがいいと思っている。
西洋で生まれたスタイルを、文化や価値観の違う東洋にそのまま持ち込んだところで、負担のしわ寄せがいくのは結局のところ弱い立場=妊娠のリスクがある女性ではないか。

オープン・リレーションシップやポリアモリーを実践している人は、一夫一妻制の生殖システム・伝統的な男女の役割・従来の性的行為などの「異性愛規範」に挑戦したいという革命的な狙いがあるのかもしれない。
でも異性愛規範への抵抗は、従来の関係とさして違いがないような概念にややこしい横文字を名付けてリブランディングしなくても可能なのでは?

わたしが「心の平穏」を保って静かに暮らしたいというのは、加齢による心境の変化もあると思う。
もし若くて好奇心旺盛な人だったら、いくらデメリットを列挙して止めたとしても、魅力的な相手に誘われてオープン・リレーションシップでもいいという気持ちを止められないのかもしれない。
それに自分で経験してみないと心から納得できない人もいるだろう。
ただこの関係性は一部の男性にとってはとても都合がいいシステムだろうし、女性はくれぐれも妊娠と性病には気をつけてほしい。

個人的には「オープン・リレーションシップ」や「ポリアモリー」は、想像しただけでも気疲れしそうなので遠慮したい。
自分の意志ではどうにもならないことが多発する、ままならない人生において、ある程度は自分の意志で相手や状況を選べるパートナーシップくらいは、わざわざ厄介事を抱え込んでまで消耗したくないというのが正直な感想だ。

以上です。なんかこの読書感想文、ただの恋バナみたいになったな……

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