見出し画像

0006_身体と都市の間の自転車

はじめに
自転車に初めて乗ったのは確か保育園生のときだと思う。
タイヤが2つしか無いのにどうやって倒れずに乗れるのか、全然意味が分からなかった。全然乗れる気がしなかったけれど、何回か練習をして、乗れるようになった。その後、幼稚園生の時に初めて自分の自転車を買ってもらった。
親が「自転車免許証」なるものを発行し(天才か?)、自転車に乗るときはこの免許証を持たなければならなかった。免許証には顔写真や住所などの基本的な情報と共に、いくつか自転車に乗る際のルールが書いてあった。
ルールはこんな感じ(記憶が曖昧)
・家の前の広場と公園でしか乗っちゃダメ
・保護者同伴ならこの限りではない
・自転車に乗る際はこの免許証を携帯する事
・宿題を終えてから乗ること
ルールの最後には、これらのルールを破ると自転車に乗れなくなるというルールもあった。他の友だちが道路で普通に乗っている中、当時はそのルールに窮屈さを感じつつ、案の定、何度かルールを破って、自転車に乗れなくなったりもした。

それから成長し、普通に道路でも自転車に乗れるようになり、小学校までは移動手段として自転車をよく使っていた記憶がある。友達と遊びに行ったり、サッカーをやっていたので、自転車で練習場所に行ったりした。
中学校に入ると、乗る時間が減っていき、高校ではほとんど乗らなくなった。大学に入ると車を手に入れたため、全くと言っていいほど自転車に乗ることは無くなった。

それからまた時間が経過し、大学を卒業して東京の設計事務所で働くこととなった。給料がバカみたいに低くて、奨学金の残りを使いながら生活していたのだけれど、自転車を買えば交通費を節約できるという安易な考えから、東京で生活し始めてすぐに自転車を買った(今考えると、普通に交通費くらいは支給してくれと思う)。ネットでいろいろ調べて、ピストという競輪で使われる自転車の存在を知り、予算の中で買えるものを探し、ある程度納得の行くものを買った。15万円くらいのものがセール対象となって8万円くらいで買ったと思う(記憶が曖昧)。当時の僕にとっては大金で、1万円札8枚をATMでおろし、お店の人に現金を手渡す瞬間はおしりに力が入った。

それから、東京で約8年くらい生活したのだけれど、少しずつ手を加え、メンテナンス(と言えるのかどうかは分からないくらい雑な手入れ)をしながら、ずっとその自転車に乗っていた。なんだかんだで、いい買い物だったと思う。特に理由が無ければ、どこへ行くにも自転車を使った。

それから、ベルリンに行くことに決めて、出発する前にSNSで貰い手を探し、ちょうど大学時代からの友人が欲しいと言ってくれたので、長年使った自転車を託す事になった。それどころか、「ベルリンに行く餞別」と言って、1万円をくれた。粋なことをしてくれる友達だ。

ベルリンに来てからもやっぱり自転車を買った。もちろんピストを買った。日本でしか手に入らないパーツをいくつか持ってきて、組み上げた。
ちなみに買うにあたって、けっこう長い時間をかけていろいろリサーチした。その結果、スペインの人に直接コンタクトを取り、安くはないけど、リーズナブルな価格でフレームと一連のパーツとを購入した。ベルリンに来る前から、いろいろ構想を練っていて、ネット上の画像を軽く1000枚くらいは集め、iPad上でコラージュしたりもした(めちゃ楽しいよ)

これまで自転車のある生活について、特に振り返ることをしなかったけれど、かなり小さい時から自転車に乗っていて、自転車を操る動きや、乗ったときの体験が早い段階から身体に定着しているのかもと感じた。鉛筆や筆を持って絵を書いたり、お箸を使ったりするという行為の次くらいに身体に馴染んでいる行為の1つかもしれない。

身体機能の拡張としての自転車
自転車を身体機能を拡張する存在として考えることがある。これはマーシャル・マクルーハン的な考え方だ。彼はメディア論の中でメディアを身体機能を拡張するものとして位置付ける。例えば、テレビは眼の機能の拡張で、ラジオは耳の機能の拡張。どちらも、自分の居ない場所の情報にアクセスできるという点で、本来持っている自分の身体機能が拡張されていると捉えることができる。自分が物理的に存在しない場所や時間の情報に触れることができる。
同じように自転車を考えると、自転車は脚の機能の拡張だ。本来持っている移動速度の倍以上の早さで移動できたりするし、移動で消費する体力も少なくなり、より遠くまで移動できる。より多くの荷物を運ぶことも自転車によっては可能だ。

ピストに関して
東京で買い、ベルリンでも買った「ピスト」という種類の自転車は、ギアが1つしかなく、その1つしかないギアとタイヤが固定されている。つまり、タイヤが回ればペダルも一緒に回る(間にギアがあるので、回転の周期は異なる)。ペダルを後ろに回せば、タイヤも後ろに回る。本来はブレーキは付いておらず、ペダルを後ろに回す事で減速する。このピストをニューヨークのメッセンジャー達が使い始めて、街でも乗る人が増えたらしい(当然、街で乗る時は危ないので、ブレーキを付けなければいけない。まあ、緊急の為の装飾って感じの位置づけ)。
初めて乗った時は、これまで培ってきた自転車に乗るという感覚が更新された感じがした。こちら側が一方的に自転車に乗っているというより、自転車の側からも身体に働きかけてくる感じが最初は少し変で、でも次第にそれが心地よくなっていった。今では、普通の自転車に乗る方が変な感じがする。

ベルリンと自転車
ベルリンの都市は自転車での移動と親和性が高いと感じる。この親和性に大きく関係している要素は2つあるように思う。都市の地形とスケールだ。

地形
飛行機に乗って、上空からベルリンを見下ろしたときに、この場所が湿地であることを理解した。緑が多く、所々に湖があり、地形の起伏はほとんど認識できない。実際に走っていてもこの認識は変わらない。もちろん、多少の起伏はあるけれど、比較的緩やかなものが多い。基本的には全てのコントロールを脚で行っている状況下に置いて、この地形特性との相性は悪いはずがない。むしろ自由自在と言える。

スケール
自転車を買うまで、歩いて移動することが多かったけれど、街や建築物や道路のスケールが日本より少し大きくて、道路の交差する角度や方向を体感として正確に認識することが難しかった。だから、曲がる道を間違えたり、見当違いな方角に進んでいたりすることが多かった。何度もGoogleMapを開き、確認することが多かった。
この感覚は実際に体験してみないと分からないかもしれないけれど、これまで生活して慣れてきた都市のスケールから一回り大きなスケールの都市に来ると、距離感覚や方向感覚が少し狂う。
自転車に乗って身体機能を拡張すると、拡張していない状態から一段だけ上に上がり、体験が少し抽象化される。例えば、歩いていると気がつく落ち葉1つ1つの色やグラデーションや葉脈の模様が、自転車に乗ると認識することが難しく、落ち葉の集合体が抽象化されて1つの塊や面になって見えたりする(車に乗ると、それさえも抽象化されて、A地点からB地点への移動として抽象化されてしまう場合もある)。
自転車に乗ることで、歩いているときには圧倒されていた都市スケールに少し近づき、そして対抗できるような気がする。
こっちはスピードを持っているのだ。
このスピード感とベルリンの都市のスケールの相性がちょうどいい。大きすぎて、距離の遠かった都市に少し近づき、自分のものとして捉えられる感じがする。

身体と都市の間の自転車
足がペダルに固定され、ペダルとギアと、ギアとタイヤとが固定され、タイヤが地面と接地する。
地面の凹凸が身体に伝わる。ペダルを脚で押して加速し、下り坂で脚の回転を促され、ペダルに脚を押されながら減速する。
シークエンス(動くことで変化する景色)の変化が、自分自身と都市との間で、お互いに駆け引きをしながら、作り上げられていく感覚を覚える。
まだ、ベルリンでの自転車生活は始まったばかりだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?