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エッセイ

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走れ走れお母さん

走れ走れお母さん

新型コロナの感染拡大に翻弄された2021年。前年初頭から続く異常事態にもすっかり慣れ、わたしと子どもはろくなお出かけもせずに息を潜めて暮らしている。
なにも自重していたばかりではない。行きつけの遊び場そのものが閉鎖ないし封鎖の措置を取られ、子どもは大好きなボールプールもトランポリンも、サイバーホイールもおあずけのまま二年近くも耐えてしまった。2019年までの日常――保育園から直帰できずに暗くなるま

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醜悪なバカとバカに寛容な日本社会

醜悪なバカとバカに寛容な日本社会

今週火曜日に、『障害者のフリをして、難癖つけてきた人を逃れた。相手は本物の障害者だと思い「がんばれ」と声をかけてきた。それを見ていた別の人は、自分が健常者だとわかると吹き出した』という主旨の醜悪なツイートを目にして、わたしは目眩がして、不快で腸煮えくり返るようで、いろいろなことを思い出しては悔しくて情けなくて、感情をひどく害した。気持ちを整理してこれを書き始めるまで、最悪の二日間を過ごした。

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氷点下の子どもたちへ

氷点下の子どもたちへ

 むかし英語圏の学校のトイレで女子らに個室に押し込められて麻薬的な何かを吸わされたことがあり、すぐ先生にも告げて父親にも言ったけれど、先生の設けた話し合いの席で、父は「いじめはやられる方に原因がある」「若気の至りで悪意はなかったはず」と述べて事を終わらせた。処世が上手い人だった。
 父は加えて「この子が話をでっちあげている可能性だってある」と言った。耳を疑ったが父は真顔だった。父は歩けない姉にも「

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ヤングケアラーは斯く病めり

ヤングケアラーは斯く病めり

姉は初めは、どこにでもいる子どもだった。元気に走り回り、わがままを言っては親を困らせる、ふつうの幼子だった。虫と土が嫌いで、フリルのついた白いスカートが好きだった。ゆで卵の白身だけ食べ、黄身は残して近所の小川に捨てるから、よく母に怒られていた――。

これらはわたしが生まれる前の姉の姿で、わたしは祖父母から姉の物語を聞いた。可愛い初孫は喜ばしい存在だった。それが何の不運か、ある時を境に下肢の自由を

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隙間の底から

隙間の底から

 産後間もなく離活を始めたので《住登外》の期間が4年ほど続いた。そこに暮らしていても住民登録をしておらず、その地に税金も納めていない。支援センターで育児相談の申し込みをしても、「お住まいは?え、ジュウトウガイ?じゃあ相談は受け付けられません」と帰されることが続いた。

 未就園児対象の市営の遊び場に通った時期がある。ある日、そこで『◯月◯日 育児相談 予約可 有料 どなたでも』という張り紙を見つけ

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差別的世界の歩き方

差別的世界の歩き方

 その数学の先生は、日本人が嫌いなようだった。はっきりとはそう言わなかったが、たかだか14歳のわたしでも、歓迎されていないことは感じていた。

 彼はいい歳だったが振る舞いは幼く、「日本人は九九がインストールされているんだから電卓要らないだろ」と言ってわたしから取り上げてみたり、わたしが答えを間違えると、「トヨダが数学間違えることなんてあるんだな。いや、君はホンダだったっけ?」と戯けてみたりしてい

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逍遥涼

逍遥涼

「りょうさんに会いたいな」と子どもが呟いた。トーハクの、『びじゅチューン!』展の松林ズライブ観客席に腰掛け、しんみりと。「井上涼さんにね、いつか会いたいな。あんなにすごい人、いないんだ。涼さんに会うの、夢なんだ」と、ちいちゃなお手々を膝の上でぎゅっと握りしめて言った。

『びじゅチューン!』を初めて観たのはEテレだった。たしか《おりがみのよりとも》の再放送だったと思う。わたしは「なんじゃこれは」と

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夢売り人への手紙

夢売り人への手紙

 姉は映画が好きだった。「いつか立てるかも知れない」という一抹の希望とともに彼女は様々な治療を受け、その過程で徐々に失望し、やがてそれは絶望に変わった。「自力で立てる日は来ない」と誰も明言しないが自明であった。生きるほど姉の希死念慮は募り、絶望と正対せずに済む没入の時間を必要とした。

 同じ映画を幾度も繰り返し鑑賞した。映画の制作秘話、演出の裏話、俳優のゴシップも全部ひっくるめて、姉にとっては養

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密室の中で、起きていること

密室の中で、起きていること

 産後ずっと在宅ワークをしていたから、保育園の順位は低かった。子どもが幼稚園に入るまでの、ふたりきりの時代は長かった。特に2歳から3歳半にかけては終始育児の泥沼に半身浸かっているようで、わたしは幼稚園の始まる日をまさに切望し、「今日も心中しないで済んだ」と夜な夜な体を震わせていた。

 2歳児の脳はまだ未成熟だし、意思疎通もできているようでできていないから、わたしは子どもの狂人がごとき一挙手一投足

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自由のアイスクリーム、塩分を添えて

自由のアイスクリーム、塩分を添えて

 中学3年。当時在籍していた学校に日本語話者はおらず、日本語を使うことなく毎日が過ぎていた。日本人である意識やアイデンティティに大きな揺らぎが生じていたのもこの時期だ。黄色人種のほとんどいない学校生活では、母国がまだ同じ地球上にあるかどうかさえ疑わしくなる時があった。

 ある日、狭い校庭で体育の授業を受けていた。授業といっても、個別に走ったりストレッチをしたりするくらいで、ボールを使いたい子がい

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ミルクコーヒーはビーカーで

ミルクコーヒーはビーカーで

 高校3年、夏。日本に「帰国」し、東京の高校に通い始めて数か月。うわべではそこそこ環境に適応していたけれど、ほかの帰国子女のみんなほど語学力もなければ大人でもなかったわたしは、なんのために通学するのかわからなくなりつつあった。欧州生活で忘れていた、日本の熱風と湿気に毎日驚いていた。

 英語で赤点を取っては「さすがキコク」と先生に笑われた。部活に入らないことで、知らない生徒からは「ずるいのはダメだ

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それは《個性》とよく呼ばれる

それは《個性》とよく呼ばれる

 個性というのはその人が生きて構築してきた人格であり、性格であり、生き方の表れるところであると思う。子どもにおいても同様だ。だから「障害は個性」という言い方はおかしい。特に「健常者よりもできないこと」「健常者よりも優れていること」を表現する際にこのフレーズを使うのは、安易が過ぎる。

 あなたの長所はなんですか、と多くの人が人生の随所で問われてきたことと思う。個人に付和雷同と謙虚さを求める日本社会

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魚群を掻き分けて、車椅子を押して

魚群を掻き分けて、車椅子を押して

 昭和末期。「偉いね。お手伝いしてるの」。知らない人がよく声をかけてきた。決まって、わたしが姉の車椅子を押している時だった。小さい子どもが家族の介護をしているのは、傍目には健気に映るのだろう。また、ほかにもよくかけられる言葉があった。「感動した」と「ありがとう」だ。

 車椅子に乗っている姉は、見た目だけは元気そうだった。全身に問題を多く抱えていたけれど、外ではつとめて明るく振舞っていたから、街で

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【日本語と日本人】わからないことは、わからないままで

【日本語と日本人】わからないことは、わからないままで

 日本の高校には1年間ほど通った。国際的に多様なバックグラウンドを持つ生徒の受け入れ校で、いくつかの国を転々としてきたわたしも"多様"なひとりとしてそこに受け入れられた。クラスには色んな子がいた。国籍も民族も母語もまちまちで、”《相互理解》とは、相互に理解し合えない部分の抽出だ”と学んだ。

 わたしは日本で苦労したことは少ない。悩みといえば、帰国後しばらく日本語がスムーズに出てこず、コードスイッ

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