見出し画像

魚群を掻き分けて、車椅子を押して

 昭和末期。「偉いね。お手伝いしてるの」。知らない人がよく声をかけてきた。決まって、わたしが姉の車椅子を押している時だった。小さい子どもが家族の介護をしているのは、傍目には健気に映るのだろう。また、ほかにもよくかけられる言葉があった。「感動した」と「ありがとう」だ。

 車椅子に乗っている姉は、見た目だけは元気そうだった。全身に問題を多く抱えていたけれど、外ではつとめて明るく振舞っていたから、街ですれ違う程度の人は夜な夜な痙攣に苦しむ彼女の過酷な日常など想像だにしなかったろう。血色の良い幼い姉妹は、消費してもいいと認識するに足る存在だったらしい。

 たまたま見かけた車椅子を押す小さな子の偉さに感動し、歩けないのに頑張って外に出る障害者に感動し、それで「ありがとう」というわけらしい。そんなに車椅子関係で短絡的に感動するなら脊損になられます? と勧めたくなることもしばしばあったが、わたしにも一抹の理性があるので口にしたことはない。

 漱石が「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と書いたように、人間には無限の想像力や思考力があるとわたしも信じていたかった。しかし現実世界で敢えて話しかけてくる人には、思考という機能さえ備わっていないように見えた。相手が生身の人間で、主体的に知覚することすらわかっていないようだった。

 ジロジロ見ない良識や指ささない良識、感動したからありがとうと伝えないだけの良識もない人たちの漂う社会、それがわたしたちの生きる場所だと思うと、気色悪さに慄いた。人間の国に暮らすつもりが、魑魅魍魎のつづらに閉じ込められでもしたような、激しい違和感にめまいを覚えた。

 かくして長年、知らない人から「感動しました」と握手を求められるたび、名状しがたい嫌悪感に苛まれてきたが、近年"Inspiration Porn(感動ポルノ)"という語に出会い、すべてがストンと腑に落ちた。

 わたしたちは、わたしたちの思う在りようとは異なる在り方でそこに存したものと身勝手に誤解され、客体化され濫用された、そのことに嘔気を催していたのだ。ただ在るだけで誰の感情にも関与していないにもかわらず、突然、勝手に煽情されたとする他者の告白に臨したなら、不快を覚えない理由はない。

 後年、姉の受療のためにいくつかの都市を渡り歩いたが、残念なことに感動ポルノに関して不快な思いをしないで済んだ場所はない。「車椅子から降りて歩いて見せてくれたらお金をあげる」と言ってきた紳士もいたし、「もっと感動させるためには姉妹でパラリンピックに出るべきだ」と説いてきた婦人もいる。

 自分の感情や幸不幸には敏感でも、他者のそれには鈍感で、自らの放った言葉の醜悪さと気色悪さに気づかない、そういう人は少なくない。そしてそう思うわたしでも、文脈によってはいつ《あちら側》に堕ちないとも限らない。せめて軽率なことだけはすまいと自戒し、軽率な感情には敏感でありたいと思う。

 感動しましたと言われたとき、わたしは車椅子の姉と歩いていただけだった。触ってほしそうだったから触っただけですと痴漢が項垂れたあの日、わたしは会社に向かっていただけだった。わたしの過去に起きたいくつもの点と点は、年をとるごとに言葉を得て分析を経て繋がっていく。過去は徐々に癒えていく。

 感動ポルノ。客体化。濫用。小学生の頃に知ることができていたら、不要に悩まずに済んだろうと思う。今はネットが開かれていて、誰でも単純な知識に容易にアクセスできる時代になった。このことはきっと若人の助けになる。他者に損耗させられる子どもたちが、いつかいなくなるように心から願っている。

画像:魚群と光

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?