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夢売り人への手紙

 姉は映画が好きだった。「いつか立てるかも知れない」という一抹の希望とともに彼女は様々な治療を受け、その過程で徐々に失望し、やがてそれは絶望に変わった。「自力で立てる日は来ない」と誰も明言しないが自明であった。生きるほど姉の希死念慮は募り、絶望と正対せずに済む没入の時間を必要とした。

 同じ映画を幾度も繰り返し鑑賞した。映画の制作秘話、演出の裏話、俳優のゴシップも全部ひっくるめて、姉にとっては養分だった。それらの知識を滔々と披露する時、彼女の目は輝いていた。車椅子に収まる棒のように細い脚が、本人の意志に反して時折激しく痙攣するような、あるいは尿意を感じることなく突然始まる多量の排尿で衣類も床も濡れるような、そんな無数の不本意を一時的にでも忘れるために、映画は必要不可欠だった。

 ある年の夏、近所で映画の撮影が行われる旨の告知ビラがポストに入れられた。つきましては何日何時から何時まで、道路に規制がかかります、ご迷惑をおかけしますがよかったら見に来てください云々。姉の好きな名優の出演作で、興奮した姉は体温調節のできない体を壊してでも見学したいと主張した。

 わたしは告知ビラに書かれていた事務所に電話をかけ、車椅子で見学できる位置を聞き、日陰の有無とアプローチの下見をし、雑木林だったのでそこまでの道の石や障害物をどかし、準備した。姉は見学中に粗相があるといけないと言って前日は食事と水分を控え、痛み止めの薬も飲まず、慢性的な激痛に叫んで耐えて夜を徹した。

 ロケの見学。それだけのために払うコスト。面倒。手間暇。世の中のものごとは大抵、本人が勝手に期待して勝手に働いた努力に見合わない。今回もどうせ、ずっと撮影を待ち続けた挙げ句、遠くにちらっと現場が見えて終わりだろうとわたしは最初からげんなりしていた。それでも姉が現実社会の営みに自ら関わろうとするのは稀だから、このときは尊重したかった。

 炎天下、数人のギャラリーの目前で、ロケは2時間もかからずに終わった。撮影隊の展開、撮影、撤収。とても迅速だった。野次を飛ばしてばかりのギャラリーの中、唯一しずかなわたしたち。俳優の演技を真剣に眺める姉の横顔は、終始幸せそうだった。

 すべての行程が終わり、俳優たちがギャラリーに手を振ってバスに乗り込むのを見届け、わたしたちは踵を返した。土と虫と湿った木の枝を車椅子で踏みながら、姉が「日常に戻りたくない」と狂おしいほど考えているのはグリップから伝わってきた。

 少し歩くと、後ろから走ってくる人たちがあり、声をかけられ、わたしたちは立ち止まった。出演していた俳優のうちお二人が、撮影のための中世のいでたちのまま、前髪だけはピンで留め、スタッフにそれぞれ裾を持ってもらって駆けて来たのだった。状況がよくわからないわたしたちに、俳優のひとりが言った。

「こんな暑い日に、ここまでいらして応援してくださって、どうもありがとうございます。握手していただけませんか」

 その人は品良く年を重ねた両手を差し出した。姉は感極まって泣き出してしまった。姉の、車椅子を漕ぐのでそこだけ岩のように逞しくなってしまった諸手を包むように、その人は握り、何度も「ありがとうございます」と仰った。

 もうお一方のほうは、しゃがんで姉の目線に合わせ、「私の大ファンなんですね、私のためだけにこんなところまで来てくださって! ご移動も大変でしたでしょうに、まったく物好きなんだから」と戯けて呵々大笑した。そうして二言三言会話し、向こうから提案して写真を撮らせてくれた後、おふたりとも小走りにロケバスに戻って行かれた。

 姉はこの日のことを亡くなるまで何度も何度も嬉しそうに語っていたし、わたしも姉と外で過ごしてつらいばかりでなく、地味な努力が報われた数少ない思い出として、あの方たちのことを覚えている。

 夢を売る仕事とか夢を与える活躍といった表現は、手垢がつき過ぎて陳腐な言い回しに成り下がってしまったが、実際、社会には売っているつもりがなくても結果的に夢を売っているような立場の人がいて、わたしたちは夢を売ってもらっていながら、彼らのことをよく知りもせず、あれこれ評して暮らしている。

 人というのはなにかに酔っていなくちゃどうにも生きていけないらしい、とは『進撃の巨人』で鋭く明解に指摘されているけれども、特に困難に在る人にとって、酔うのは息をするより重要で、姉はフィクションの世界に酔ってなんとか自死を決断するまで生き永らえたし、わたしは闇雲に希望を抱くことに酔っている。

 あの俳優の方たちがどのようなことに苦労しどんなことに酔ってその日その日を生きておられるか、あるいは楽しいのか絶望されているのか、そんなことまで夢買い側のわたしたちは関知できないし、知りようもない。なによりそれは他者の領域で、そこに他人が立ち入ることではない。
 だから、彼らのゴシップがあることないこと書き立てられるたび、わたしは胸が痛む。

 できればまたお姿拝見させてほしいです、今後も画面でご活躍を眺めていたいです、でもなにより大事なのはあなた方の平穏と幸福です、ご無理なさらず、ただ一度の今生をどうか豊かにお過ごしください、わたしは過去に見せていただいた夢を何度も記憶の内に反芻できますので、どうかどうか幸福で。

 はからずも夢を売ってくれている人への想い。あなたがいま安寧にあるなら、ほんとうはそれだけでじゅうぶんなのです。むしろ安寧にないなら、何もして差し上げられないのが、心苦しいくらいなのです。見守ることしか、できないのです。だから見守り続けます、これまでも、これからも。あなたが没入させてくれた夢を、わたしたちはきちんと抱えて生きております。

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