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それは《個性》とよく呼ばれる

 個性というのはその人が生きて構築してきた人格であり、性格であり、生き方の表れるところであると思う。子どもにおいても同様だ。だから「障害は個性」という言い方はおかしい。特に「健常者よりもできないこと」「健常者よりも優れていること」を表現する際にこのフレーズを使うのは、安易が過ぎる。

 あなたの長所はなんですか、と多くの人が人生の随所で問われてきたことと思う。個人に付和雷同と謙虚さを求める日本社会はこうして時々突然「お前は何者だ」と問うてくる。満足できる答えを述べられる人はどれだけいるだろう。過剰に騙りも謙りもせず、己の個性を話し言葉に乗せるのは難しいことだ。

 人の個性の全容を他者に伝えることは、言葉を尽くしても難しい。なにを思いなにを好み、どんなものを愛しどう生きているのか。同時に誰かの個性を理解することも難しい。この難しさに関して、健常者と障害者の別はない。

 だから「特性」とすべきところを「個性」と誤認し「障害は個性」と言い放たれてしまったテキストを見るにつけ、深く知ることを放棄した側の発言なのか、あるいは反対にそう述べなければならないほど疲弊した側の発言なのか、わたしはしばらく考え込んでしまう。

 かつて障害のある姉のことに触れ「そうですか、歩けないんですね、でも『障害は個性』だから」とどれだけの人に言われてきただろう。彼らに悪気はなく、そして自らの発話の適切さを発話前に検証するだけの考慮もない。ただ傷つけないよう言っているのはわかる。そしてその優しさは残念ながらゴミなのだ。

 わたしはすでに姉も亡くし、今度は障害者の家族よりも親という立場に強く在るようになり、我が子を通してさまざまな「特性」をもつ乳幼児と交わるようになった。乳児の頃は診断がつかない「特性」も多い。疾患を孕んでいる場合もある。そうした当事者の親同士の会話に、慰めの言葉を挿んでくる人もいる。

「でも障害や病気があったとしても、個性だからね」と。そう、「障害は個性」と人が言う時、往々にして「だから」という助詞で終わりがちだ。障害は個性だから、愛せる? 個性だから、気にするな? いずれにせよ実りある助言ではない。そう言いがちな彼らに必要なのは「黙る」という選択肢だ。

 あなたが病気にかかり障害を持ち、障害者に認定されたらあなたのそれまでの個性は消えて障害が個性になるのか? あなたが事故に遭い四肢を失ったら、あなたの個性はその失くした部位に宿るのか? あなたを呼ぶ時「障害者の〇〇さん」と枕詞をつける必要が生まれるのか? 決してそんなことはない。

 障害と個性を簡単に結びつけて慰めや励ましの言葉を口にするくらいなら、なにも評さずただ黙っていればいい。耳が聞こえないんですね、そうですか。自閉気味なんですね、そうですか。そこで次の話に移っていい。「でも障害は個性だから」は要らない。それは袖すり合っただけの他人が決めることではない。

 毎日多くの優しい人たちが、黙ることができずに駄文を発話する。「障害は個性だから」だけではない。わたしは日本語話者として、誰かの尊厳や人権を軽率に踏み躙るような表現には誤りを指摘したいし、また自身も口禍を招かないように努めたい。でも時々は鋭く罵倒しちゃう。それがわたしの個性だから。

画像:砂利 by. カズキヒロさん

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