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わからないといえるところから
☆photopos-3571 2024.6.18
わかっている
と思いたい
思われたい
わからないとは
思えない
思いたくない
そんなところからは
わかることは
はじまらない
わからない
というところ
わかろう
とするところから
わかることは
はじまる
わかることを
はじめるために
未知の曠野へ
赴く者は
幸いである
その孤独の種からこそ
稔りはもたらされるから
*愛媛県久万
土居健郎「人間理解の方法————「わかる」と「わからない」」(『最終講義 学究の極み』)
☆mediopos3501 2024.6.18
手元に1997年実業之日本社からでている
『最終講義』という一冊がある
今回(五月)角川ソフィア文庫から
『最終講義 学究の極み』『最終講義 挑戦の果て』
という二冊がでているが
これは二〇二二年に刊行された『増補版日本の最終講義』が
分冊の上文庫化されたもの
上記の『最終講義』以降に行われた講義をはじめ
そこには収められていない講義も収録さ
ユクスキュル『生物から見た世界』『生命の劇場』/保坂和志「鉄の胡蝶は記憶を歳月を夢は彫るか71」(『群像』)/グレーバー 『万物の黎明』
☆mediopos3500 2024.6.17
ユクスキュルの『生物から見た世界』は
mediopos-2343(2021.4.16)でとりあげているが
その「環世界」という視点は
主-客という認識の問題にも深く関わり
さまざまな動物の世界における「環世界」の他にも
ひとりひとりの人間にとっての「環世界」という
主観的現実についての視点も加えられているのが興味深い
ひとりひとりの見ている
魔法の言葉で世界は歌う
☆photopos-3569 2024.6.16
水の神話は
創造の起原を語る
原初の海は
言葉をつくる
音の波の集まり
つまり弦
弦がふるえ
音の波が重なり響きあい
そこから光が生まれた
言葉は光る音
そして音と光は律動し
歌いはじめる
すべてのものは
歌でできているから
たとえ歌が
忘れられてしまう
そんなときがきても
魔法の言葉さえあれば
世界はまた歌いはじめる
詩人は
小林道憲「共鳴する宇宙」(『生々流転の哲学』)/中村雄二郎『かたちのオデッセイ』/アレクサンダー・ラウターヴァッサー『ウォーター・サウンド・イメージ』
☆mediopos3499 2024.6.16
mediopos3493(2024.6.10)では
小林道憲『生々流転の哲学』から
「ヘラクレイトス」をとりあげたが
今回は同じ「1 万物流転」から
「共鳴する宇宙」をとりあげる
この章では
「宇宙は無数の要素の共鳴世界」であって
「多くの音の振動や位相が同期し」
「弦と弦が共振するように」
「われわれ地球上の生命体も、
この宇宙のリズムと共振
石井ゆかり「星占い的思考52 フォゲット・ミー・ナット」(『群像』2)/ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』/カルロス・カスタネダ『時の輪』
☆mediopos3498 2024.6.15
感情というのは厄介極まりないが
思考や意志と関係した感情もふくめ
ひとはその生のほとんどを感情とともに過ごす
いかに感情を豊かにするかということ
意識化し制御できるかということが
最重要の課題だといえそうだ
注意が必要なのは
感情が豊かであるということと
感情的になりやすいということとは
逆だということである
感情的になりやすいのは
むし
東畑開人「贅沢な悩み 連載第7回 4章 臨床心理学の二柱の神——生存と実存」『文學界』
☆mediopos3497 2024.6.14
東畑開人が「文學界」で連載している
「贅沢な悩み」の第7回
第1回から第5回までは
第1回:mediopos3310(2023.12.10)
第2回:mediopos3343(2024.1.12)
第3回:mediopos3376(2024.2.14)
第4回:mediopos3409(2024.3.18)
第5回:mediopos3432(2
小笠原鳥類『吉岡実を読め!』/『吉岡実詩集』/『小笠原鳥類詩集』
☆mediopos3496 2024.6.13
小笠原鳥類は一九七七年生まれの詩人である
誰にも似ていない詩を書く
彼は詩は魚であるといっているそうだ
最初の詩集は『素晴らしい海岸生物の観察』(2004年)
鳥類なのになぜ魚なのかといえば
魚を狙う鳥だからだとかいう(笑)
小笠原鳥類の詩を読むようになったのは
入沢康夫が上記の詩集の帯にある
「この新しい詩人の自然物(生物、わけても鳥)へ
これは詩として書かれてはいない
☆photopos-3565 2024.6.12
はじめに詩があるのではない
詩として読まれる言葉が
そこにあるだけだ
詩として書かれていなくても
詩として読まれる言葉はあるけれど
詩として書かれていても
詩とは読めない言葉のいかに多いことか
こうして詩のように行分けで書かれていても
これは詩として書かれてはいないし
詩として読まれる必要もないように
詩人も芸術家も哲学者も
はじめから
文月悠光(連載書評 文一の本棚)「石原吉郎『石原吉郎詩文集』」(『群像』)/野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』
☆mediopos3495 2024.6.12
石原吉郎は
「詩は、「書くまい」とする衝動なのだ」としながら
一九七七年六十二歳の晩年まで詩を書きつづけた
文月悠光は一九九一年生まれの詩人だが
『群像』の「連載書評 文一の本棚」で
『石原吉郎詩文集』をとりあげている
ひとは必ずしも年齢ではなく
それぞれの体験の質はひとの数だけあるだろうが
三十代の文月悠光にとって
そしてその「詩」の言葉
竹下節子『オカルト2.0 西洋エゾテリスム史と霊性の民主化』/「科学はフェイクで、魔術がリアル? 大学で「魔術とオカルト科学」を学ぶ意義」((「WORKSIGHT」)
☆mediopos3494 2024.6.11
昨今「Web 2.0」という言葉が
使われたりもするように
「オカルト」も
これまでとは異なったあり方
認識のされ方が求められるのではないか
というところから
竹下節子『オカルト2.0』という著作が書かれている
副題に「西洋エゾテリスム史と霊性の民主化」とあるように
秘められた高次の智慧のようなものとして
限られた人間だけに可能な「霊性」をと