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グルーブ・ドレジング

 第三次世界大戦は阻止された。だがそれは、けっして人類が望んだ方法によってではなかった。
 大戦の火蓋が切って落とされようとしたまさにそのとき、世界各国の空に竜が現れて、都市を、街を焼き払った。それは白銀に輝く、飛行機ほどもある竜だった。その竜が無数に、夕刻の雁の群れのように空を悠然と泳ぎながら、口から熱線を放射して世界を焼き尽くしたのだ。
 各国は大戦のために備えていた軍備を竜に向けた。皮肉なことに、竜という脅威が大戦を止めただけではなく、国同士の繋がりを強化した。団結したかつては敵味方の陣営だった国々は、竜に対して出し惜しみすることなく軍隊を投入したが、結果はあえなく惨敗というものだった。たった一頭の竜を仕留めることもできず、人類側の戦力は全滅した。この時点で、世界の被害は死者数億人に上っていたが、竜は攻撃の手を緩めることなく、世界を焼き払い続けた。人類に最早抵抗する術はなく、逃げ惑う人で溢れた。「国家」という枠組みは崩壊し、世界は無秩序に包まれた。
 だが、クリスマスイブの夜、突然竜は姿を消した。あれだけ空にひしめくように飛んでいたものが、忽然と消えたのだった。
 世界の人口の七割が死んだ、とラジオでは報じていたが、誰がそんな数字を弾き出せたというのだろう。生き残ったメディアは根拠のない妄想のような情報を垂れ流し続けた。主に話題は竜のことだった。竜は神の使いで、人類を裁くために現れたのだ、という自称宗教家の意見だったり、いや、竜は地球の自浄作用で、抗体のようなものだ。地球が我々をウイルスだと認識したのだと主張する環境活動家だったりの意見を、ろくな裏付けもとらず報じ続けた。
 誰しも竜の再来を恐れた。だが、あのクリスマスイブの夜以来、竜は姿を見せることはなかった。
 世界は緩やかに復興し始めた。日本では旧態の政府は瓦解し、発言力とリーダーシップのある若者たちを中心とした自称政府がまず出来上がり、その指導力についていく人が増えるに従って、自称政府だった集団が権力を持ち始めた。それに生き残った国会議員たちが反抗したが、彼らは口ばかりで実行力が伴わないため、民衆の賛意を得られず、政治の場からだけでなく、物理的心理的にも排除され始め、身の危険を感じた議員たちは裸足で逃げ出す有様だった。
 その新しい統治機構は、集団の中のリーダーであった実朝と名乗る男を首相に据え、国の復興の指揮を執り始めた。だが、彼らはクリーンなばかりではなく、逆らう者に容赦しないという一面があった。勝手に興った政府など認めない、と主張した頑迷な老人たち(新政府は労働力にならない老人に冷淡だった)を情け容赦なく射殺したのだった。彼らは竜による襲撃の中、こうなることを見越していたのか、壊滅した自衛隊の駐屯地などから大量の武器弾薬を盗み出していたため、武力を有していた。
 国は復興を始め、都市部では限られた量ながら電気を使うこともできるようになった。豊かさを少しずつ取り戻していくに従って、人々の生活は懶惰になった。歓楽街が人々で賑わうようになり、街角は女で溢れた。男の手を引いて、自らの身を売って金を手にし、さらに着飾って上位の男を狙う――その繰り返しに躍起になった。
 その復興していく影で、都市部であろうと田舎であろうと、人はばたばたと死んだ。衛生状態が悪化している上、医者にかかることができるのは相当な富裕層の人間に限られていたから、風邪をこじらせただけであっという間に命を落とすなどということはざらだった。
 そしてその死体は処理しなければ更なる環境の悪化を招き、病原菌による被害の拡大に及びかねない、として新政府は「死体駆除人」という職を設け、国から回収した死体に応じて補助金を出すことにした。
 この「死体駆除人」は、彼らには何の罪もないのだが――、忌み嫌われ、蔑まれた。彼らは侮蔑されてこう呼ばれた。
 どぶ攫い、と。

 今日二体目の死体だった。ぼろぼろの衣服に身を包んだ痩せぎすの男。脇に手を差し込んで引っ張り上げるとやけに軽いものだから驚いた。シャツをめくってみると、あばらが痛々しいほどに浮いていた。骨と皮以外何も残っていない、そんな死体だった。
 飢えて死ぬのは嫌だ、と本城は思った。緩慢に世の中に殺されるくらいならいっそ、竜に焼き払ってもらった方がよかった。馬鹿な男だ、と本城は一人ごちる。どぶ攫いになれば少なくとも飢え死にするようなことはない。
 衣服のポケットを攫っても何も入っていなかった。その男の持ち物はぼろきれのように体に引っかかったシャツにジーンズと、穴の空いた靴だけだった。本城はため息を吐く。何か金目のものでも持っていれば、ボーナスになるのにと。
 新政府はどぶ攫い以外が死体を処理することを禁じ、またどぶ攫いには死体の所有物は須らく政府が権利を有するものであるから、横領することを固く禁じた。だが、そんなもの見つからなければいい。政府の役人など死体が転がる下界には降りてこないし、新警察も人員不足なのとどぶ攫いを忌み嫌うのとで近寄りはしない。間抜けの須藤のように警察がたまたま通りがかったりするような不運がなければ、問題はない。風の噂では須藤は収容所送りになってすぐ、肺炎を起こして死んだらしい。
 金目のものがないと知ると必然死体が重くなったような気がする。単に本城の側に意欲がないがためなのだが、死体の重さに悪態をついて、荷車に乗せる。一体目の死体は銀の指輪をしていた。金属は高く売れる。闇市に持っていけば、一か月分の食料代にはなると本城は見積もっていた。
 荷車をがたごとと引きながら、本城はネックウォーマーを引っ張り上げて口と鼻を隠す。道には砂塵が降り積もっていた。砂と灰。世界を焼き尽くした炎は大量の砂を空に巻き上げ、砂は風に乗って方々に降り注いだ。木々が、生物が、建物が燃えた灰もまた次の炎で巻き上げられて大地に降り注いだため、ここ首都東京でさえ、下界は砂塵に覆われてしばしば砂嵐を起こした。
 新政府は自分たちが君臨する東京の新都庁及び新官邸に付随する建物群を上界と称し、徹底的な人海戦術で砂と灰を除去し、新たな科学技術なども導入しながら近未来的な生活を送っていた。そしてそれ以外の土地を下界と呼んで蔑み、上界の人間が下界にまで下りてくることは稀だった。
 本城は「どぶ溜まり」と呼ばれる死体処理場に荷車を運んでいくと、入り口に置かれた大きな体重計の上に死体を重ねて乗せた。
(ちっ、百キロにも満たねえじゃねえか)
 受付の神経質そうな眼鏡の女が重さを読み上げ、記録すると、奥から白シャツ一枚の筋骨隆々とした男たちがやってきて、死体を運び始める。一瞥をくれたシャツの男の目つきが気に入らなくて、解体人め、と内心で毒づくが、彼らのシャツにこびりついて消えない血の染みを見ると、委縮して反感を覚える気力も萎えてしまうのだった。
 死体はこれから解体され、肉と骨と皮と内臓に分けられる。骨は焼成して砕いて粉末にし、農家へ肥料として譲渡され、皮は闇市に加工用の皮として売り渡される。内臓はほとんどが焼却処分され、肉は犬の飼料となる。犬は人間の肉を食べ、そして大きくなった犬を人間が食べる。
 世界崩壊に伴って畜産は大打撃を受け、牛や豚、鳥はほとんどが焼き払われてしまった。いまでも少数が飼育されていると聞くが、政府によって厳重に管理され、その肉を食べられるのは上界でもさらに限られた者だけだという。そんな中でも犬は大量に生き残ったため、新政府はこれを家畜とすることを決定し、今では公然と平然と犬料理が店に並んでいる。世界崩壊前の人間からすれば、考えられないことだろう。
「では、今日の取り分です」と事務の女はトレイに硬貨を載せて差し出す。
「これっぱかしかよ」と地面に唾を吐きながら、本城は硬貨を毟り取るようにして受け取ると、踵を返す。
「本城さん」
 事務の女に呼ばれて、忌々しそうに舌打ちすると本城は振り向いて「なんだよ」と睨みつける。
「今度、お食事でもどうです?」
 女は小首を傾げて精いっぱい愛嬌を見せようと微笑んでいるが、笑みがぎこちない。彼女は周囲を見回し、誰もいないのを確認するとトレイに百円玉を載せて本城の方に差し出す。さっき本城が受け取ったのは十五円。百円といえば大金だ。状態のいい死体十数体分には相当するだろうか。
 本城はさっと手を伸ばして百円をかすめ取ると、女の顎に手をそっと沿わせて上げ、唇を奪うと「また今度な」と笑みを見せて、女が何か言おうとするのを待たずにその場を立ち去った。
(おれはどぶ攫いだが、どぶ溜まりの女なんかごめんだ)
 だが、百円は儲けたな、と表面上は平静を装いながら、内心でほくそ笑んだ。
 一日中死体を探して回ったので体がくたくただったが、全身が砂塵まみれなので、湯を浴びたいなと本城は処理場のシャワー室の方に回った。だがちょうど解体職人たちの湯浴みの時間だったらしく、長い行列ができていたので諦めて寝床に帰ることにした。五円あれば公衆浴場にも入れるが、そのために金を使うのは勿体ない気がした。
 本城には夢があった。こんな滅びてがたがたの世界に夢もくそもない、とは思うのだが、夢想せずにはいられないのだ。自分が新政府の役人の一人になって、上界で暮らしている姿を。役人の試験は下界の人間、たとえどぶ攫いだろうと受けることができるが、受験に多大な金がかかる。どぶ攫いの歩合ではとてもじゃないが生きていくのに精いっぱいで、受験など夢のまた夢だった。
 帰路、人気のない路地に差し掛かったところで、本城は前方から誰か来るな、となんとなくそっちを見ていた。砂塵が舞って人相などは判断できないが、シルエットからすると女性らしかった。
 砂塵が晴れてくるとそれがブロンドの、紫のロングスカートの若い女だと分かった。この辺りでロングスカート? と本城は訝しく思った。下界では布は貴重なため、ロングスカートを履けるのは相当に裕福な者とされていたが、そんな家の女性がこの界隈を独り歩きしていることが不審だった。それ以外に身に着けているものも光沢があって上等なものだと分かる。やはり相応の家柄の娘、ひょっとして上界の人間か、と考えてまさかと自分の考えを笑い飛ばす。
 女は体調でも悪いのか、ふらふらとしていた。やがて側溝に足を取られると転倒し、起き上がる様子を見せない。本城も気になってしまって、近づいて女の様子を覗き込むと、ぜいぜいと喘いでいて顔面が蒼白だった。
 何かの病気だ、と悟った本城は離れようとしたが、そのとき女の指に黒く光る指輪が見えて、それに釘付けになってしまった。介抱するふりをして助け起こし、女の額に手を当てる。
(こんなに血の気がないのに、すごい熱だ)
 長くはないかもしれないぞと考え、ちらと指輪を見ると、それは黒いダイヤの指輪だった。
(ブラックダイヤ! 政府の試験どころか、上界に家が買えるほどの金になるかもしれない)
 本城は高揚感を感じていた。もうその指輪は自分のもののように思えていた。女はきっともう間もなく死ぬ。そうすれば指輪など無用の長物になる。あの世でまで着飾る必要もあるまい、と忍び笑いをもらす。
 するとその人の気配を察したのか、女が目を開ける。その目はとても澄んだ、世界が崩壊する前の春の空のように青く清冽な目だった。
「ああ、どなたか存じませんが。お医者様を呼んではくださいませんか」
 女は若く美しかった。まだ二十代そこそこだろう。肌は下界の住人とは思えないほど、透き通るように白くきめ細かく、唇も血色がいい。日本人ではないようだが、発音は日本人のものとしか思えないほど滑らかだった。
「医者って、あんた、医者を呼ぶにも金がかかるんだぜ。持ってるのかい」
 女はその美しい空色の目にいっぱいの涙を浮かべて、首を振った。つつと涙が白い肌の上を走り染める絵筆のように流れた。
「お金はありません。でも、これを売ればどうにかなりませんか。母の形見なのです」
 そう言って女はブラックダイヤの指輪を外すと、震える手で本城に差し出した。
 本城はおっかなびっくりその指輪を受け取ると、「売っちまって構わないんだな」と訊ねる。女はおもむろに頷いて、「命には代えられませんから」と喘ぐように言うと本城の腕の中でぐったりとした。
 おい、と本城が何度も呼んだり揺さぶったりしたが、女はただ荒く息を吐くだけで、返事をする様子を見せなかった。
 本城は手の中の指輪を見つめ、売った金で医者を呼んでも余りあるな、と全身が震えてくるのを感じた。自分の皮膚の中の肉がうずうずとして、外に弾け出そうなほどに喜んでいるのが分かる。自制心、というものがなければ、叫び出していただろうな、と彼は思った。
「おい、聞こえるか。待ってろ。今医者を連れてきてやるからな」
 女をそこに寝かせると、本城は駆け出した。宝石を売りさばくには時間がかかる。その間にあの娘は死んでしまうだろう。だが、この指輪が担保だ、とちらつかせて見せれば、医者も信用してあの娘を診るはずだ。
 本城は走りながら、「そんな必要があるのか」と誰にともなく呟いた。
 娘は死ぬ。医者を呼んでも十中八九。それなら、医者に渡す分だけ自分の取り分が減ってしまう。医者は労せずして金を手にするわけだ。そんな馬鹿馬鹿しいことがあるか。医者にくれてやる金など、びた一文もない。これはすべておれの金だ、と本城は指輪を握りしめた。
 立ち止まって振り返る。砂塵に覆われてもう娘の姿はおろか影も見えない。
 いや、指輪は娘のものだ。まだ生きている以上。死者から無用なものをいただくことはあっても、盗みはしない。おれは盗人じゃない。
 戻って娘の様子を確かめてみよう。もし生きていたら本当に医者を呼びに行き、死んでいたら、指輪をいただく。死体の処理は他のどぶ攫いがやるさ。あんな小金稼ぎにもう用はない。
 本城は娘の元へ駆けて戻る。娘の美しい服にアブラムシのように砂塵が群がっていた。足音を殺し近寄る。娘は身じろぎもしない。あれほど激しかった呼吸も、胸の上下がないということは、していない。そばにしゃがみ込むと首に指を沿わせる。脈動がない。
 死んだ! 娘は死んだのだ!
 本城は歓喜のあまり娘の冷たい手に接吻し、握りしめた指輪をポケットに突っ込んで砂塵の中を走り出し、駆け抜けた。まだ今年の試験には間がある。それまでには金も用意できるはずさ、と本城は世界崩壊前に春の桜並木の中を駆け抜けた爽快感を思い出していた。

 上界の庁舎には塵一つない。
 本城は革靴をこつこつと鳴らして歩きながら、すれ違った清掃人に「ご苦労様です」と声をかける。すると相手の中年の女清掃人は恐縮して、「恐れ入ります」と消え入るような声で行ってそそくさと立ち去る。
 上界にも身分の上下はあった。だがどぶ攫いのように蔑まれる仕事はなく、最上位には新政府の大臣たちが君臨し、その下に役人、さらに下に一般労働者、というように、役人に特権意識をもたせる構造になっていた。
 本城は指輪を売り払い、巨額の金を得て上界に住まいを確保し、試験を受けて役人になった。希望配属先を環境省にしたのは、自分がそれまで甘んじていたどぶ攫いなどを管轄する部署だったからだ。どぶ攫いの不正な横領が横行しているのを知っていた本城はその取り締まりで功績を上げ、省内での地盤をしっかりと固めていた。
「本城主任、お客様がお待ちです」
 戻ってくると後輩の遠藤が近寄ってきて声をかける。「お客様?」、来客予定はなかったはずだが、と首を傾げながら応接室に向かうと、誰もいなかった。だが椅子は引かれていて、誰かが座っていたような気配はある。席を立ったのか? いや、なら遠藤がそう言うはずだ。何気なく椅子に近付いてみると、座面にはうっすらと砂塵が積もっていた。
 本城はその砂に触れてみると、黄色と白の交じったざらっとしながらもさらさらする独特の手触りがした。記憶が数年分巻き戻って、砂塵に埋もれゆく街を思い出した。
(下界の砂。一体誰が)
 本城は嫌な予感がして応接室から出ると、デスクでのんびりお茶を飲んでいる遠藤に詰め寄った。「客は、どんな人だった」
「えっと、どんなと言われると。きれいな女の人でしたけど」
「何か言っていたか?」
 遠藤は腕を組んで考えて、あ、と思い出した顔をして、「指輪のことでって言ってました」と無邪気そうな笑顔で言う。
 本城は血の気が音をたてて引くのが分かった。悶えるように「ありがとう」と言うと自分のデスクに戻り、破裂しそうな心臓を抑え、思考を明瞭に巡らせるために深呼吸して酸素をとりいれた。鼓動は依然速い。考えをまとめようにも言葉が散り散りになってまとまろうとしない。
 下界の砂塵。指輪。美しい女。
 指し示すものは一つしかない。だが、そんなことはありえない。娘は確かにあのとき死んでいた。後から上界の人間らしい死体を回収したという話も聞いている。間違いなく、娘は死んで処理されて、この世には影も形もないはずだ。本城は確信をもってそう結論付けた。
 ならば、下界の誰かが見ていて自分を脅そうとしているのか。いや、そもそも下界の住人が上界に足を踏み入れることすら困難だ。ましてや上界の人間に成りすますなんて。相当の資金がなければできない。ではどういうことになる、と本城は自分でつけた結論が根底から揺らいでしまいそうなのを感じ、首を振ってそれを否定した。
 そして考慮するに値しない些事だとして、それを記憶の奥底に封印することにした。
 翌日出勤してくると、庁内がざわついていた。一抹の不安を覚えながら係に上がっていくと、係の女性職員が泣いていて、係長がそれを慰めていた。
「何があったんです」
 鞄を置きながら隣の席の職員に訊ねると、その職員は沈鬱な表情になって、「遠藤君が亡くなったんです」と声を潜めながら告げた。
 本城は仰天して、「なぜです。事故ですか」と問う。前日のあの元気そうな様子では、病気でもあるまいと思ったのだが、死んだのが遠藤と聞いて本城の心に黒くざわざわとした不穏な何かが広がりつつあるのを感じていた。
「殺されたんです。下界で」
 そういえば、昨日遠藤は下界でどぶ攫いの取り締まりに回る、と何人かの職員と一緒に下界に降りていた。
「一緒にいた職員によると、どぶ攫いを取り締まっているときに、上界の住人らしき女性が声をかけてきて、『指輪のことで相談したい』と告げて、遠藤君も快く了承してついて行ったそうなんです。
 けれど、どれだけ待っても帰ってこない。おかしいと思って探しに行くと、手の指をすべてもがれた状態で亡くなっている遠藤君が発見されたんです」
 指輪。本城は眩暈を感じてふらつき、やっとの思いで椅子に座る。
「大丈夫ですか、本城主任。顔色悪いですよ」
 あの娘が、指輪を求めて追ってきている。胃が喉から出そうなほどに胃酸が逆流するのを感じ、激しい痛みが胸を襲った。
 隣りの席の職員が心配そうにのぞき込んでくる。大丈夫だ、と手を掲げて制し、顔を上げると、隣にいたのはあの娘だった。
「わたしの指輪はどこ?」
 すんでのところで悲鳴を上げそうになるが、もう一度見てみると、娘は隣の席の職員に戻っていた。幻覚か、と冷や汗を大量にかきながら、本城はぐったりと項垂れる。
 本城は気分が優れないことを伝え、早退することにした。どういうわけか、早く家に帰って家族の顔を見て安心したいという焦燥に駆られた。
 新都庁の近くに買ったマンションまで辿り着くと、エレベーターに乗ろうとボタンを押すが、一向に降りてこない。焦れた本城は階段を駆け上がり、十五階まで上がった。
 玄関の扉を開けると、キッチンからひょっこりと顔を覗かせたのが指輪の娘だった。本城は絶叫を上げ、その場に尻もちをつく。
「おかえりなさい。ねえ、わたしの指輪はどこ?」
 娘はにこにこと邪気のない笑みを浮かべながら、ゆっくりと姿を現し、近づいてくる。
 本城は恐怖と怒りの混じった声で、「ない、もうないんだ、どこにも!」と叫んだ。
「何がないの?」
 娘はいつの間にか妻に変わっていた。心配そうに駆け寄ってきて、本城のことを抱き起した。本城は冷や汗でびっしょりだった。「顔色悪いよ」と妻の声に何か尋常じゃないことが起こっているのかという漠然とした不安が伝染しているのが、本城には分かった。
「タケルはどうしたんだ」
 いつもなら真っ先に出てくるタケルがいつまでも出てこないのを本城は疑問に思い、嫌な予感を覚えていた。
「あれ、すれ違わなかった? あなたの職場の同僚だって人と、外であなたを待つんだって出てったんだけど……」
 妻の顔と言葉が曇る。本城はほとんど絶望的な気分になっていた。「その同僚の特徴は」
 本城は妻が説明する特徴があの指輪の娘とぴったりおなじだと確信すると、玄関を開けて妻が呼ぶのも構わず外に出る。
 エレベーターホールで待っていると、運のいいことにすぐエレベーターが来る。乗り込むと先客が三人ほどいたので、本城は咳払いをして着衣の乱れを直し、心が乱れていることを悟られないように呼吸音を抑えて、息を潜めた。
 ずっと下降しているような錯覚を感じ、顔を上げるとディスプレイはまだ十二階だった。遅い、と苛立ってくる。それを抑えるために、周りを観察しようと試みる。感情が乱れているときには、自分以外の何かを見て注意を逸らすことが効果的だと本城は考えていた。
 いるのは三人。女子高生、三十代の主婦らしき女性。豪奢な衣服に身を包んだ年配の女性。
 観察していると、ふと三人とも指輪をしているなということに気づき、はっと顔を上げる。すると三人の女性は手の甲を向け、指輪を見せつけるようにして本城に突きつける。三人ともが、あの指輪をしていた。
「指輪はどこにあるのかしら?」と三人が声を揃えて言う。
 本城は慌ててボタンを押し、十一階で降りると、振り返った。エレベーターの中には誰も乗ってはいなかった。だが、またあの密室の中に戻る、と考えると恐怖心が湧き上がってくるので、階段で降りることにした。
 一番下まで降りて、マンションから出る。そこには誰もいなかった。周囲を見回しても、日中の住宅地ということもあって静まり返っていた。
 本城は方々を走り回って探したが、徒歩で行けそうなところには指輪の娘の姿もタケルの姿もなかった。やむなくマンションの前まで戻ってくると、ガードレールに指輪の娘が腰かけていた。
 本城の姿を認めるとにっこりと笑って、「わたしのお医者様も、そうして探してくれた?」と足を無邪気にぶらぶらとさせながら訊いた。
「タケルを返してくれ。あの子は関係ないんだ」
 本城は娘の前に崩れて、跪く。
「じゃあ、わたしの指輪も返してくれる?」
 本城は地面を叩いて、「もうないんだ。おれは持っていない!」と叫んだ。
 すると娘の顔が般若のような怒りの相に変わって、「じゃあ返してあげない」と地の底から響く、寒気で体に震えがくるような声で突き放した。
「頼む。他のものなら何でも差し出す。だから、タケルだけは返してくれ」
「なら、奥さんをくれる?」
 本城は唇を血が出るまで噛み締め、「それは妻か子かどちらかを選べということか」と腹の底から声を絞り出して、ようやく言った。
「そうね。でも奥さんをくれるというなら、彼女の命まではとらないであげる。その代わりに奥さんという立場をもらうわ」
「君が、亡霊の君がおれの妻になるというのか。タケルの母親になるというのか」
 娘は笑顔になって「そうよ」と頷いた。
「あなたは永遠に見続けるの。あなたが見殺しにして、その娘が大事にしていた形見の品を売り飛ばした罪を。あなたも、あなたの子どもも」
 ああ、と喘いだ。妻との思い出が走馬灯のように蘇る。
「安心して。あなたの思い出の中の奥さんの顔も、みんなわたしになるから」
 本城の中の記憶が、水が染み入るように徐々に侵食され、妻が指輪の娘の姿に変わっていく。それに伴って感情も再構築されるように、妻への愛情がそっくりそのまま指輪の娘に向けるものになっていった。それゆえに、指輪を売り払った罪悪感が増幅され、自責の念に圧し潰されそうになる。
 胃酸が逆流する。胸が焼けてひりつく痛みが本城を襲う。胃をひっくり返したように内容物を路上に吐瀉すると、吐き出すものがなくなってもなおえづきつづけた。頭痛がする。遠くでわんわんと金属的な、無機質な音が鳴っている気がして、締め付けられるように痛い。
「大丈夫よ、あなた。わたしがそばにいるから」
 妻が優しく背中をさすってくれ、エプロンで吐瀉物で汚れた口元を拭いてくれ、本城は自分には勿体ない妻だと思った。それなのに、どうして指輪を売り払うなどという裏切りを犯してしまったのだろう。
「指輪が見つかるまで、永遠にね」
 妻の薔薇の花が色づくような美しい笑顔を前にして、本城は何としても指輪を探し出さねばならない、と決意した。
 気が付くと「ママ、パパ?」とタケルが妻の足元に立っていた。自分はなぜこの時間なのに仕事に行っていないのか、と訝しく思って首を傾げながら、たまには家族サービスも悪くないな、とタケルと手を繋いで、妻の肩を抱いてマンションの中に戻って行った。
 本城の過去は忘却の淵に沈んだ。彼がどぶ攫いだったこと以外。

〈了〉

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