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ノンシャラン

Kは世界で最後の手鏡を拾ってしまう。ただちに夜逃げだ。どこから聞きつけたのか、街中の女たちが押し寄せる。誰もが色めきたっている。鏡狩りが施行されて以来、ごぶさたの真実を知るために。ムスリムのヒジャーブを風になびかせて。

取るものも取りあえず、Kは山小屋へ避難する。山小屋の管理人は、やはり黒いヒジャーブの老女。「街はえらい騒ぎだってね」と彼女は言う。「ひとつ、取引しないか?」とKは持ちかける。「しばらくここで匿って欲しいんだ。騒ぎが収まれば、婆さんにだけ鏡を見せてあげるからさ」。「あらっ嫌だ」と老女は頬を赤らめる。何を勘違いしたのか、その晩、Kはとんでもない光景を目の当たりにする。風呂あがりに老女が寝化粧をしているのだ。こっそり覗かれているとは露知らず、黒いヴェールを脱ぎ、窓に映る自分自身の姿を、老女はうっとり見つめる。白髪だらけの髪を梳く。牛乳パックで皺を伸ばす。入歯をコップに浸し、肉の落ちた唇にルージュを引く。洗いたての下着に穿き替えても、骨と皮だけの身体は食べ残した小魚みたいだ。

老女はひたすら窓硝子に吸い寄せられる。ときどき深く溜息をついたりもする。なにか気に食わないのか、こんがらがった感情のさざ波が何度も窓硝子の表を往来するようだ。「フン、やっぱりガラスなんて信用するもんじゃない! まともに映りゃしない!」。そう言って、老女はサイドボードの写真立てをパタリと倒す。踏ん切りをつけると、ハミングしながらしずしずKの部屋へ忍んでくる。

慌ててKは部屋へ戻る。内側から鍵をかけ、念のためにドアノブをぎっしり握る。片脚でドアの横壁を踏んばり、そして決めこむ渾身の沈黙。乾いたノックの音に続き、老女は囁く。「寝てるのかい?」「………………」「恥ずかしがらなくてもいいんだよ、坊や」。大いなる錯覚と現実とのあいだで壮絶な駆け引きが続くのだ。思い余って、とうとうKは手鏡を差し延べる。ドアの下の隙間からスッーと。

「おやっ、ガラスのがらくたかい?」

「世も末だね、紛いものばかりで!」

意気しゃあしゃあと老女は吐き捨てる。Kは身震いしながら、まんじりともできない夜を徹して、鏡狩りを断行した為政者の真意に思い至る。

明けがた早々、老女が寝静まっているうちにKは山小屋をあとにする。キラリ、どこからか鋭い閃光が差し込む。

はるか遠く、山の中腹から、羊飼いの少年が鏡の破片で朝日を反射させている。Kの顔に狙いを定めて遊んでいる。



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