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選評「便器の騎士」

希望が尽きた。紙オムツがなくなったのだ。自尊心が耐えられない。予備はもちろん、金もない。ひとつ、ドラッグストアーを当たってみよう。便器に跨り、ひとっ飛び。便器が宙を飛ぶのだ。ドラッグストアーはもう閉まっている。インターホンで店員を呼び出す。「お願いだ、お願いだから、紙オムツを譲ってくれ、あとで必ず払うから」。店員はドアの向こうで「お客さんですね、店長、開けますか?」と言う。「客なもんかね」と女店長は言下に退ける。みずから店員に代わって出てくるのだ。「おお、これはこれは店長さん、お願いです、紙オムツを1袋、この便器に入れてください。お代はあとで払います」。中から店員の大声、「ポイント対象っすか? サイズはMで?」。「いいや、なにも要らないってさ。お漏らしの恥なんか、金欠の比じゃないよ」女店長は怒鳴り返す。「強欲ババァ!」と声を張りあげた。喚きながら、しずしずと二度と戻れない浄水場の底へと沈んだ。

パロディ「バケツの騎士」

今回の佳作に選ばれたこちらの作品ですが、注目すべき点はいくつかあります。まず、バケツを便器に置き換えることによって生まれる、テキストの異化作用ですね。それを、原作を忠実になぞりつつ最後まで完走したのは、称賛に値すると思います。カフカに負けじ劣らず、というより原作者カフカのおかげで、老いの哀しみ、折れた自負心、とでも言いますか、それが現代の後期資本主義的な抑圧と静かに相対しており、便器にまつわるアイテムとして紙オムツを選んだ時点で、この作品の一定の成功は約束されていた、とも言えるでしょう。

残念ながら、しかし佳作は佳作なのです。優秀作との違いは、実はいま申しあげたロジックにあります。このパロディは「頭」で書けますからね。原作との偏差と言いますか、捻りと距離感さえ定められれば、あとはモダニズムの知性的な処理で、いわば誰にでも書ける。

それは、カフカからいちばん遠いものです。書くことのインプロビィゼーションがない。せめてエンディングぐらいは、いまはもう最後の仕切りで、どんづまりの隅に罠が待ち構えている、走りこむしかないザマだ。「方向を変えるんだな」と猫は言い、パクリと鼠に食いついた――。




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