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好きな人と好きな人が結婚した。「お似合い」という無邪気な暴力。

結婚してもしなくてもいい時代に、なぜ結婚が祝福されるのか。

根本を辿ると「家」の存続という目標の達成感、そしてそれが未達だった時期のプレッシャーからの開放感がある。「未婚の人間は半人前」とされる空気。その空気を少しでも感じたことのある大人はそれから解放された人を「おめでとう」と喜ぶ。共感からの祝福だ。

いや、大切なひとが生涯の伴侶を見つけたことを心から祝福しているのだ、という反論もあるだろう。

しかし、月並みだが3組に1組が離婚する時代に、結婚をゴールと見なすことの欺瞞を一抹も感じない大人はどうかしている。友人の結婚式に参列しているときも、Facebookで誰かの結婚報告を見かけても、連日当番制のように槍玉に挙げられる芸能人夫婦の不貞や不和のニュースを無意識から完全に払拭することなどできない。

では、結婚という破綻したまま代替制度が見当たらないためにとりあえず皆が選択している制度に、今どんな「めでたさ」があるのか。

それは「個人が自己へのレッテルの貼り替えを自主的に達成した」ことへの賛辞に尽きる。
一個人として、あるいは誰々の子として、あるいはどこどこに所属する一員として、「1(個人)」「3(多くの場合、親+自分)」「多(所属組織と自分)」という数で定義されてきた個人が初めて社会的に「2(説明不要だが、配偶者と自分)」と認識される瞬間だ。

自分を定義する「2分の1」を無数にいる人間の中から選択し、相手の了解を得たという奇跡的な行動力に賛辞するのみだ。そしてあり得たであろういくつかの障害を乗り越えた達成、少なくとも今は当人の固い意志が完徹されたことを祝うのだ。

私は個人的に、祝うのはそこまでで充分だと考える。
結婚した二人共と均等に懇意な人のみ、二人の「相性」に言及していい(しなくていい)。
社交辞令で、結婚式場やSNSのコメント欄を盛り上げるために「お似合い」と発するのもまあ、わかる。

しかしそれが、よく知らない二人に対してであればどうだろう?

自分がよく知っているつもりの芸能人同士が結婚した時に「めでたい」と感じるのは、これからも活躍してほしい人が、自分の意思で、充実した生を送るために、「自分を定義する2分の1」と合意を得て社会的に承認された、ということだ。
短く言えば「好きな人がより生きやすくなった」ことへの祝辞のみであるべきと思う。

それがたまたま自分の好きな作品の共演者であったとか、まして社会的に美男美女であったという要素を高く持ち上げるのは、実はとても根拠の薄い謎めいた行為である。

いや、言ってしまおう。
個人的に知らない他人を捕まえて「お似合い」と褒めそやすのは、結婚式やSNSなどで当人たちを直接盛り上げる行為とは違い、善意よりも暴力性が勝つ気がしてならないのだ。悪意のない暴力というのは確実に存在する。これはかなり純度の高い「悪意なき暴力」かもしれない。


たまたま手前が好きだった二人が互いを仮にも生涯の伴侶に選んだことを、勝手に手前の物語にしていないか。いや、当然にしているのだ。

推しの何らかの目標達成や誕生日を祝うことと何が違うのか。
それは、他人が選択したパートナーの価値を勝手に値踏みする行為だからだ。

美人の相手が美人であること。
美人の相手が美人でなかったこと。

その二つの結婚に価値の差があってたまるものか。
(社会的に「美人」とされる人、という意味で敢えてこの言葉を使うことを許してください。)

その結婚の当事者が「美しくあること」を職業にしていたとしても、結婚という選択とその公表は業務ではない。何人も、自分が伴侶に選択して同意を得たパートナーを見ず知らずの他人から値踏みされる謂れはない。

難しいのは、「誉めているのにダメなの?」ということだ。
「ああ、ポリコレね」「野暮だな」と思われるのだろう。

でも、「何となく慣習的に善きこととされてきたが、実は根拠が謎である」ということを見つけて疑っていかないと、社会と向き合う時の傷は減らない。

少なくとも自分は、「自主的に点数け・順位付けに参加していない人が勝手に採点される」謎現象は社会から一つでも減ればいいなと思っているし、それが結婚という一見めでたいどさくさに紛れて雑にまかり通っているように見えてらない。


そもそも「結婚していた人間に好印象を持ち、離婚したり未婚の人間に悪印象を持つ」とかもっと手前の「結婚にパートナーの所有のニュアンスを混ぜ込む」といった一刻も早く治すべき現代人間の癖については、また別のお話。


考えが変わったら加筆修正します。今は似た意見をほとんど聞かないのでちょっと大袈裟に書きました。もちろん、違う意見があってもいいと思います。

全く同じ論点ではないけれど「血縁への無邪気な盲信」から友人にエグい刃を向けられて驚いた小話を書いておくので、これについてどう思うか、良かったらどこかで感想ください。金額の価値があるわけではなく、ハードルとしての値段です。気にせず↓

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文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。