おぼん・こぼんになれなかった星屑たちが埋まるコンクリート
おぼん・こぼん師匠は特別ではない。
何のことかわからない人は「水曜日のダウンタウン おぼん・こぼん」で検索。
無邪気なお笑い大好き少年として、リアルに芸人を志すモラトリアムの学生として、事務所に売り出してもらって分不相応な舞台に並べてもらう若手芸人として。15年くらいかけて、近くから、遠くから、数えきれない芸人コンビの背中と終わりを見てきた。
あのくらい仲の悪いコンビはいくらでもいる。
むしろ、あの空気になったことのないコンビの方が珍しいくらいではないかと思う。
あらゆるこの世の仕事上の関係性を見渡してみても「お笑いコンビ」ほど歪なものはない。
近代以降、仕事の円滑化や個人にかかるストレスの軽減のために、仕事を行う組織の人間関係は流動性・柔軟性の確保に向かって進んできた。
権力を持ちすぎた人は出世という形で現場を離れる。
生まれながらに一生の職種が階層的に決まっていた時代は終わり、終身雇用も有名無実化した。
しかし「お笑いコンビ」内のポストには「出世」も「卒業」もないし、一人が離職した瞬間に「コンビ」という組織は消滅する。
一人が辞めただけで消滅するプロの組織、異常だ。
お笑いを論じるときに、コンビの関係性が「夫婦」や「兄弟」など、家族に喩えられることもある。
しかし、血の繋がり以上に生々しいのは、自分の名より先にコンビ名の全体を名乗らなければならないことだ。
コンビは二人合わさって一人の人間のように評価される。
夫婦でも兄弟でも苗字が頭につくものの、「鈴木夫婦の夫の方・鈴木一郎です」「佐藤姉妹の妹の方・佐藤花子です」とは言わない。
社名を冠して「〇〇商事の大島です」と名乗るのに近いが、〇〇商事の大島じゃない方が一人しかいない、社員二人の会社なのに「〇〇商事」を先にフルで述べるのが慣例になっているに等しい。
お笑いコンビは肉体の一部が社会的に繋がっているようなもので、ピンで活動しているときには肉体の一部が独立で歩き回っているような居心地の悪さを社会から与えられる。
一人でいることに説明が必要なプロの組織、ますます異常だ。
そして「遊びのように見せかけた芸をする商売」と言えどやはりプロの仕事であるのに、引退適齢期が存在しない職業でもある。当然、コンビの解散適齢期も存在しないということだ。
ダブルスのプロスポーツ、バレエやダンスなどのペアなどと比較するとわかりやすい。基本的にパートナーと一心同体にカウントされていても、体力がピークから落ち込んだら関係性を解消する、という期限がある。
お笑いコンビには、ない。
お笑いコンビの終わりのパターンは3通りしかない。
「解散」か「フェードアウト」か「死別」だ。
自主的に辞める時期を決める以外に辞める理由が訪れない職業、異常だ。
しかし、それは自主的に選んだ「表現者」という業深い職業の共通点でもある。
が、やはり音楽ユニットのように個々の演奏・作詞・作曲技能が独立して他所でも機能しうる業種と比較して、二人の間に流れる「空気」を売り物にしている漫才コンビは、独立した部品ごとになった途端に商品価値が大いに目減りする。
そして何より、そんなに歪な「お笑いコンビ」の最も歪な点は、それほど無理がある関係性を誰に指図されるでもなく自主的に選択していることだ。
ピンでも集団でもなく、二人組。最も揉めやすい人数。
もちろん、劇場やネタ番組の演目構成的にコンビの方が入れ替えが容易であったという制作サイドの事情、そして2000年代以降のM-1フィーバーで「コンビ」という関係性への信仰が暴騰してきた歴史など、これだけ無理がある「コンビ」という関係性に志望者が後を絶たない外的理由はいくらでも語れる。
しかし、お笑いを志す若者がやはり「コンビ」を念頭に置いてしまうのは、その関係性が生来的に孕んでいる「危険性」が核にある。
漫才に限らず、二人組に限らず、良い生(なま)の演技芸術の共通点は「緊張感」である。
「観てよかった」と思える漫才やお芝居には二つの台本が感じられる。
一つは当然、演者間で事前にやり取りされた文字通りの台本だ。
台本を書き起こさないコンビもいるが(我々もそう)、脳内に台本はある。
そしてもう一つの台本が、相方と共有しない、プレイヤーが各自でこっそり書き込む赤字の台本だ。
ネタ帳に書き込んでいるかもしれない。
脳内にあるだけかもしれない。
漫才中にリアルタイムで加筆・修正される概念上の赤ペン字かもしれない。
なんにせよ、この台本の鍵は「相方に見せない」ことだ。
文字通りの台本をひっくり返そうと、相方を出し抜こうと常に狙っている。
と同時に、相方から変化球が飛んできた時に捕球する姿勢もできている。
その二つの台本が同時に走っている会話劇は何度でも鑑賞に耐えうるし、同じネタでも見える角度が舞台により全く違う。
赤字の台本の加減乗除が言葉に出なくても、その威嚇と牽制がいわゆる「間」「呼吸」として立ち現れる。
私は当代の現役漫才師でとろサーモンのお二人、鬼越トマホークのお二人のネタが中毒的に好きなのはそれだ。
鬼越さんの今期M-1の予選一回戦のネタはまさにそれだ。
つまり、漫才とは台本があるふりをして相方を出し抜こうとする二人の狂人のダンスであり、常に明示の台本と秘匿の台本を2冊(脳内にであれ)携帯する、信頼と裏切りの競技でもある。
十字架の表裏に磔にされているような姿勢で行われる会話劇。
「愛憎」と「笑い」を交換する、悪魔の契約だ。
そして厄介なことに、その十字架に彼らを縛り付けたのは自分自身だ。
十字架を目指して全国、津々浦々から東京、大阪へ上って来るのだ。
そうして99%は解散かフェードアウトする。
近年特に高まるお笑いコンビのBL(ボーイズ・ラブ)的消費は、その確執を、蜜月への「フリ」と解釈する姿勢であり、至極順当なトレンドだ。BL的消費が高まるほどに、リアルな確執も並走させるコンビへの信頼も反動的に高まる。(※絶対数として男男コンビが多いのでBLと表記したが、女女コンビをガールズ・ラブ的に消費するのも、男女コンビを恋愛関係的に消費するのも同根である。)
今回の「水曜日のダウンタウン」で面白いのは、VTR中のおぼん・こぼん師匠の方が、スタジオにいるコンビより人間らしく見えてくることだ。
多少は経てきたであろう愛憎を押し殺して平気な顔で振る舞うスタジオのダウンタウンさんとナイツさんの方が狂って見える、という反転が起こる。これはこの番組でたびたび反復される「されたら当然驚く/怒る理不尽をけしかけて実際に驚く/怒る人間を見て笑うスタッフ」の異常性をパネラーが指摘する、という構図にも似ている。
(蛇足:他パネラーが芸人人生ずっとピンの伊集院光さん、柳原可奈子さん、コンビとして売れながらも相方と独自の関係性をキープしていることが周知の麒麟・川島さんという多様さも面白い)
おぼん・こぼん師匠が特殊だった点があるとすれば
・不仲になった時点で晩年であったこと
・フェードアウト、活動休止状態ではないこと
の二点だ。
冒頭に述べた通り、このレベルの不仲は芸人では普通だが、70代の二人がそうなっていること、そしてなぜか別れていないことが注目を集めた。そして「コンビ」というハイリスク・ハイリターンの関係性の怪奇に多くの視聴者が眩暈を覚えた。内輪ノリ消費に流れるのが楽なテレビバラエティにおいて、普遍的な知的好奇心を刺激し続けるのが現役のバラエティ作家の中で藤井健太郎氏の突出して信頼できる理由だ。おぼん・こぼん師匠のことを知らなかった世代までが「コンビ」という悪魔的関係性のフィルターを通して二人への愛を持てた。奇跡だ。
結局、おぼん氏、こぼん氏それぞれの感情の変化も再結成のきっかけも、視聴者には言語化できるレベルまでには掴めない。
つまるところ、この番組の企画から学べることがあるとすれば、自分の知らない職業には、その業界の論理とも言えない論理、内情があるということ、
そして結局それは潜入してもよくわからない、ということだ。
他人を解釈して白黒つけるための情報とも言えない情報の流速に多くのエンタメが勝てない世界で、結論をつけずに、わかったような切り取りをせずに、言語のレッテルを超えて感動を生んだ「水曜日のダウンタウン」の功績は大きい。
おぼん・こぼんになれなかったコンビの屍が東京や大阪の地面にはたくさん埋まっている。
いや、コンビでなくなれば自由に歩いて行ける彼らが落としたのは、自身の肉体ではなく、そのたった数年、十数年だけ相方と自分を繋いでいた臍の緒のようなものだ。
劇場の舞台に、楽屋に、喫煙所に、安アパートに、一杯で何時間でも居座れる喫茶店やファミレスに、臍の緒は干からびて、石化して堆積していく。
臍の緒を養分にして、コンビへの幻想は毎年9月や12月に大輪の花を咲かせ、上空に高く高く昇って行く。
P.S. 上記2組の漫才師の他に、上記の基準に沿ってガチで好きなコンビを敬称略で10組書きました。(解散コンビもありで)
※原稿料も頂けるくらいの記事だなーと思ってるのと、自分で書いといて自分が未解散コンビとして活動してる中でマイナスになるような視点も盛り込んでると気付いて割に合わないなと思って儲けたただの小銭コーナーです。ご了承を。
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