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茨城百景 水の里安中

オッス

茨城百景については茨城百景Wikipedia
水郷については↓

で安中ってどこだよという話ですが美浦村の霞ヶ浦に突き出た半島部分です。今は美浦村ですが百景選定当時(1950年)は安中村という村が存在してました(55年に合併で廃止)

現在はこういう地形ですが

昔はこう!干拓で入江が埋め立てられる前はより霞ヶ浦に突き出た半島でまさに水の里という趣。
で今回も石碑の場所はGoogleマップに載ってるのでさっそく包含風景を下調べしていく。

①丈六薬師
↑のワードでググったら一発で出てきます。妙香寺の薬師如来像の事です。室町時代製らしく軽く600年以上前の物wwwwwww

②陸平の貝塚
これもGoogleマップに載ってるので簡単に発見。妙香寺のすぐ近くにある。丈六薬師と同じくそれなりの文化財なので情報が沢山出てくる。日本で初めて近代的な考古学的発掘が行われた貝塚らしい。

③馬掛不動尊
これもググったらすぐ出てきます。馬掛不動堂の事です。茨城百景より昔の茨城四十五景にも選定されています。1398年創建でかなり歴史があり高さ1メートル余りの不動明王を祭っているそうです。大昔はこのお堂がある丘の麓がすぐ水際であり不動明王もその水際にあったがある時、水害で沈んでしまい一時的に別の場所に避難、最終的に現在のお堂の場所に移った。
また正確な時期は分からないのですが不動滝という滝がかつて境内にあった模様。

霞ヶ浦における湖沼景観の評価(1987年)より

そして何よりも霞ヶ浦の絶景見晴スポットとしての性格が強いみたい。

④不動浦

浦の定義を考えればまぁ普通に馬掛不動尊の麓の水辺の事でしょうね。今は堤防+道路ですがかつては波打ち際だったわけで。と言ってもあくまで推測なので正体不明。

⑤大山弁天の鼻
最初は大山地区に稲荷ノ鼻ってあんじゃーんこれじゃーんと思ってたら実は大正頃の地図↓を見たら書いてありました。一応美浦村文化財センターの方に質問をして裏付けも取りました。何故弁天なのか理由が分かる資料も見せていただきました。場所はズバリ鹿島海軍航空隊跡のカタパルトの跡あたりです。

大正頃の地図

⑥弁天山
これは先輩方情報によると黒坂命 弁天塚古墳の事らしい。根拠らしい根拠を挙げている人はいないが他にそれっぽいモノも無い。ところで下調べでストビューを見るとどう見ても人ん家の庭なんですが・・・

⑦馬掛一斗落
これはちょっと難問だったけど百景巡りの先輩による聞き込みで判明してますた。
『馬掛不動尊から大山の鼻にかけての田んぼ景色と対岸の遠景。馬掛地区の小字に地元の人が使ていた一斗落の名称があったそうです。』

そして現地では各所を回った後、最後に貝塚に併設されている美浦村文化財センターでネット上での下調べで分からなかった細部や資料について聞くことに決めいざ目的地へ。
今回はある程度場所の当たりがついているので下調べ編の後フィールドワークで石碑&包含風景巡り→資料調査編の順序。

石碑&包含風景巡り

・石碑

後から知ったんですが除草前の一番伸びてる時に撮影してたらしく草に埋もれてます。ちなみに石碑の場所は旧安中村役場があった所。
そして石碑の前の景色はこんなんですが↓

過去の地図から照らし合わせると干拓前は水色の部分が入江だったので↓

この石碑の前には美しい入江が広がっていたんでしょうねェ~。大山江戸崎線はまさに昔のままでこの入江を迂回して海軍基地まで繋がっています。

①丈六薬師
像がある妙香寺と貝塚、美浦村文化財センターはまとまって近い所にあるので寺の霊園の横にある陸平貝塚公園の駐車場に駐車するのがいい感じです。

入り口付近は日本の原風景らしくいい雰囲気です!
そして本堂と薬師堂は霊園を抜け階段を上った高台の上にあります。

妙に綺麗だなと思ったらつい数年前に本堂と薬師堂は今の高台に移動した模様。やけにピッカピッカだなと思ったわ!百景選定当時は今の高台の麓に像があったらしい。

いやでも高台にあるほうが見晴で『映え』ますね。いいねぇ~。
んで肝心の像は・・・

で、デカイ・・・。想像してた3倍はある。しかも結構生々しいです。下から顔を見上げたら目が半開きで目を開けたのかと思って一瞬ビックリしました。

②陸平の貝塚
ここはGoogleマップで見ると近いので寺から歩いていきましたが・・・
駐車場からのこの分岐、いかにも左が正解に見えますが右の標識が剥がれているほうがある意味正解です。

左は美浦村文化財センターに繋がっていてさらにその先は貝塚に直行できる道が続きますが

こんなんです(困難です)
先ほどの分岐を右から行くと整備されてて美しい田園地帯、池、その他観光施設がある綺麗な道を通って貝塚に行けます。
ちなみに

美浦村文化財センターの駐車場から右ルートに行ける階段もあります。
地図だけ見て左から行こうとして途中で引き返しました。ストビュー無い所ではよくあります。

そしてテクテク歩きながら丘を登り貝塚へ。途中でガサガサという音がしてイノシシか!?オワリヤと思ったら野兎でした。童謡のふるさとに歌われた里山の野兎とか今時いるのか・・・初めて見た・・・

何の変哲もない一面クソ緑ですがそこら中にイノシシの罠注意!マムシ注意!の看板が立って謎の緊張感があります。人全然いないし。
そして奥に見えるのが

復元竪穴住居

これ。復元竪穴住居があります。監視カメラ付きとか竪穴住居のくせに俺の家より豪華です。
そしてその横にはぶくぶく水、昔の人の水くみ場への分岐があります。

そしてぶくぶく水に向かう道は結構長い!しかも地面は枝や落ち葉がそのままでマムシが隠れる余地が滅茶苦茶あって怖い。

そして降りていくとこんな感じです。70年代以前と違って山への人の手の入り方が違うので昔はもっとスッキリしてたんでしょうけど。
貝塚の最奥には大宮神社があります。

貝塚とわかる要素は殆どありません。美浦村文化財センターの展示の説明を見るとわかるのですが昔この丘の上は畑が沢山あり山も手入れが入っていてスッキリした見た目だったようです。
よくそんな所をよく開墾したものですがそこら中から貝が出て来て地面は白ぽかったそう。

上の状況とセンターの発掘当時(明治)の写真を見比べると全然違いました。
ここ以外にも言えるのですが日本では70年代に入るまで山の土地と資源を日常的に使っていて今より人の手で整備して緑が少なかったわけです。もっと昔の江戸時代の絵なんかは山はハゲ山だらけです。
70年代以降は燃料、材料、食料は基本輸入の物を買うように変化していて山にしばかりに・・・という時代は終わり野山に人の手は昔ほど入らなくなり緑が多くなったというわけです。なので他の百景の場所でも高台にある系は景色が変わっている事が多々ありました・・・

1949年の航空写真。青〇が今回歩いていた貝塚の領域。
現在

つまりこんな感じです。百景選定当時は畑が広がっており奥に大宮神社の木の並ぶ参道が見えたんじゃないですかね?今も開けた草地はありますが航空写真を見ると昔のほうが開けてる場所の範囲が広いです。
よってここは美浦村文化財センターの展示を見てから現地を見るのがいいと思いました。自分の順序は逆でしたが。

③馬掛不動尊

鬱蒼としてます(絶望) 先ほどの話と繋がりますがここは霞ヶ浦を高台から見晴らせる絶景がメインコンテンツだったみたいですが今は階段から少しだけ辛うじて見えるレベル。

写真見返したら言うほど見えてない

『かつて境内には不動滝があり~』だそうですがよーく観察してみると確かに境内を囲む断崖絶壁から水が染み出ています。

更にお堂の麓でも水際の断崖絶壁だった跡を観察できます。

お堂の階段入口あたり

④不動浦

馬掛から弁天鼻方向

一応馬掛不動尊のある高台の麓の水際。現地に行った時はよくわかんねーけど写真だけ撮ってセンターで調べるかとか考えてました。

⑤大山弁天の鼻

駐車場から見た東側のスロープ
東側のスロープ
本来弁天鼻があったカタパルト跡

ここ弁天鼻、現在は鹿島海軍航空隊の基地跡なわけですがここは色々なスポットが重なっています。スロープ自体は水上バイクの発着場、南側のヤシの木が並んでる通りは稲フォルという車バイクの撮影スポットになってたり基地の跡地は観光地化して土日のみですが見学できます。

鹿島海軍航空隊跡なんかは調べ始めると一つの記事が書けてしまうくらい色々歴史があるしほかのスポットも被っているのでもし新しい百景が作られたら包含風景から昇格でしょうね。

⑥弁天山
下調べでストビューを見た時点で個人の敷地っぽいなと思ってましたが

まぁ普通に人んちの庭にしかみえないわ

しかしそこら中に看板あるし

ウェルカム感あるし普通に入っちゃいました。

高さは小中学校の校庭の端によくある人工の小山ほど。木が鬱蒼としててほぼ見晴はゼロ。

⑦馬掛一斗落

事前情報によるとこのあたりの土地の筈。しかし霞ヶ浦・弁天鼻・対岸・田んぼが見渡せるとあるのでどこやと探した結果

右の丘が高台の南東の端

木がクソ生い茂ってますがもしかして馬掛不動尊のある高台の南東の端あたりから昔は見晴らせたのでは?知らんけど(関西人)

資料調査編

というわけで一通り回ったので最後は資料調査

美浦村文化財センター

対応してくださった職員の方に色々と質問し資料まで探して頂きました。感謝。
職員の方は茨城百景の事は知らないらしく百景なのにガイド的な資料は無いんですかと逆に聞かれました。こっちが聞きてえよ(泣)
百景巡りの先輩に日立多賀工場新聞の百景巡り連載記事集をまとめた訪問記を紹介している方がいましたがそれですら写真無しで記述もざっくりです。地図と写真がちゃんと載ってる資料があったら答え合わせとして見てみたい。

丈六薬師
このセンターで分かった事としては百景選定よりもっと昔の話だが元々お堂は現在のゴルフ場の敷地内にあたる場所にあった。更にそこには池がありその畔に旧薬師堂があるという感じだったらしい。
↑に載せた大正頃の地図にも謎の池があって堰か何かかなと思ってましたがそういう事か!となりました。

明治頃の地図

地図や航空写真を見ると戦前の内に池は失われて農地になっているのでゴルフ場の開発とは関係ないみたい。結構なデカさで中々の景色だったろうなー

・馬掛不動尊
霞ヶ浦が境内から見えなくなっていた事を伝えたら驚かれました。つい数年前までは普通に見れる状態だったみたい・・・。しかし写真があった!

引用資料メモ忘れw

聞いた話によるとここは管理している家があるそうですがやはり高齢化などで難しい状態なんでしょうか。他の百景も巡ってると全く管理がされず放置されるままという所も多々あるので巡るなら早くしないとダメだなと改めて思いました。完全に気が向いたら行く感じなんで・・・

不動浦
これは色々と調べて頂きましたがちゃんとした根拠は見つからず唯一わからず仕舞いでした。やはり馬掛不動尊の麓の水辺ではという話になったんですが意外と手前の堤防道路や車道の拡張は最近の話で(確かに航空写真を見ると80年代~堤防の建設が始まっている)それまでは車道は細い農道のような感じでサイドはすぐ波打ち際だったそう。つまり百景選定当時と景色は違いますが写真は見つかりませんでした。

1975年頃
1980年頃
現在

・大山弁天の鼻
これは資料がありました。

うるわしき美浦村(著・美浦村村史編さん委員会) より

つまり百景選定当時は1950年ですので基地建設に伴ってとっくに弁天堂は移設されてるわけですが建設以前の弁天鼻だった時代の人間は生きてたわけで選定当時は弁天鼻という地名で呼ばれていたんでしょうね。
選定当時は基地の官舎は病院、スロープは放置、グラウンドだった場所などは農地へという感じだったようなので無粋なソーラーパネル畑を除いて選定当時の景色が現在でもほぼ残っている場所と言ってはいいのではないでしょうか。

・弁天山
職員の方曰く選定当時は今より霞ヶ浦側の土地が低かった模様。つまり相対的に高い山だった。

1949年の航空写真。中央の小山が弁天山。

目の前の県道も土が盛られているのかちょっと田んぼより高いしある時と無い時では印象がだいぶ違いそうです。

引用資料メモ忘れ

やっぱりこれも昔のほうが薄毛じゃない?左のは単純に冬だから?
そしてここはやっぱり個人の所有する物らしいです。入ってよかったんですか?と聞いたら普通に見学はOKだそうです。

・馬掛一斗落
百景巡りの先輩が同じ所で同じ質問をしていますが一応質問。やはりあの田んぼあたりの小字が該当。写真資料等無し。いや俺は高台からの一斗落の見晴を指してると思うけどねえ!

そして総合すると石碑と包含風景のロケーションはこんな感じ。

というわけで不動浦を除いてコンプです。まー不動浦も名称や歴史からしてほぼ正解だと思いますが。知らんけど(関西人風)

茨城百景 水の里安中 ~完~


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