春を生き急ぐ

「春を生き急ぐ」

 友人の死を知ってから早半年。辺境というには些か歓楽な街へと引っ越して早三ヶ月が経とうとしている。雪解けと共に精神的な蟠りも解消されるかと思ったが、つくづく自分は生きにくい人物らしい。もっともその肩身の狭さこそ、哲学的思考を生み出す母体であるのだ。

 音楽鑑賞に明け暮れた大学生活を懐かしくも感じつつ、その習慣を手放したくないという小市民的な生き急ぎが自分の身体をむしばむ。そこまで生き急ぐ必要は何もないのだ。仕事に精を出す、といういかにも自分が有能と思い込んだ無能共が私の耳元で囁くのだ。真面目に取り組むことほど楽なことはない。才能とは何と残酷なものだろうか。

 春の祭典。かのストラヴィンスキーの傑作である。北の大地はまさに雪解けを出し惜しみし、そのじれったさこそ寒冷地に魅了されるミソである。零下20℃の世界では、誰もが石油ストーブのねっとりとした香りにうんざりするのだ。

 しかし、私は思う。花屋で買ってきた球根を庭に植えるだけの作業に何の刺激があるのだろうかと。バレンタインデーにカカオ豆からチョコを作れ、自作パソコンの部品から製作しろ。そんな無理難題の考えなのだろう。思うに花を植えるとは春の疑似体験ではなかろうか。真っ新なチューリップが、冬でくたびれた花壇に生命力を与える。しかし、花の寿命はせいぜい1月くらいである。花卉とは何とも興味深く、対照的な産業である。
 
 田んぼに水入れをする作業も花壇の生き急ぎと似ている。この光景を日本の原風景などと表現する評論家がいるかもしれない。笑止千万な話であるが、田んぼの水が太陽に反射してキラキラ輝くのは生命の輝きであり、水と油のそれである。水田という一つの疑似空間も我々にとってはまた対照的な事象であり、「間」という地平の上に立つのである。
 
 身体が疲労しているときには、あの病院の香りを思い出す。嗅覚が敏感になるのか、あるいはぼやけるのか。クリーンルームのようないつ何時でも清掃が行き届いた、不自然なあの香りである。その感覚に襲われる時は自分の身体が妙な浮遊感を覚えるのだ。そして頭の中に「生と死」の狭間を思い出す。これも一つの生き急ぎであるのか。しかし妙な心地良さを感じるのもまた確かなのだ。手放したくない。
 
 田んぼの堤防を走り続けたとある地方交通線。今年の3月で1世紀にもわたる使命から解放された。廃線跡の踏切は遮断機がもぎ取られ、双翼を失った鷲のように無様な有様を私に呈示する。哀愁を覚える感情もまた一つの生き急ぎであるのか、しかしこの大地に足を踏みしめることは、それ自体生き急ぎ、すなわち一種の焦燥感と共にあるのだ。死は焦りから我々を開放する、と捉えるのは誤謬なのか。あるいは青臭いかびた思考の一つなのか。ポラリスから見下ろされた我々は生き急ぎなど知る由もなし。天体観測は一つの示唆を与えてくれる。荒涼としたこの土地で双眼鏡はその役目を全う出来ない。

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