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~過ぎるとは何か

「凄過ぎる」

 
 私はこの慣用表現がキライである。今はそうでも無いが、つい昨年までは、聞くと若干の怒りを覚えたほどである。

 
 語弊を恐れずに言えば、知能指数の低い言葉に感じるのだ。それに人間に感受を超える意味での過剰はそもそも認識出来ないはずである(認知心理学の専門家ではないので、そう思い込んでいるが)。そして、この表現は使い捨ての単語であり、創出の観念がない。そこが気に食わないのである。

  
 このフレーズが世の中に蔓延るようになってから、何年くらい経ったのだろう。「ヤバい」、「エモい」といったフレーズと似通った性格を持つ言葉だと、勝手に思っているが、問題点は、それが真に自分の感受したものを過不足なく、表現可能か、ということにある。

 
 確かに言葉を失うような風景や芸術、あるいは音楽体験はある。しかし、それを語彙力の欠如という観点で感想を述べるならば、他にも多様な表現があるはずだ。「過ぎる」という言葉は、何故ここまでキャッチーな立ち位置を獲得したのだろうか。

 
 話はブレるが、例えば性交渉をした際に、快感を得た際にも「気持ち良過ぎる」と表現することがあるだろう。思うに「~過ぎる」はコミュニケーションのツールとしては、老若男女に通じる、国民的フレーズであろう。しかしその性格故、評論には向かない。これは難しい言葉を必ず用いなければ、評論ではない、と思い込んでいる自称評論家(気取り)には耳の痛い話である。

 
 昨今は何にでも「~過ぎる」を付け足せば、自分の精神的空白を埋めることが出来ると勘違いする傾向にある。もっともそれが悪だとは全く考えない。コンテンツを消費し、自分の人生も同じものと捉える人生観は、何も最近に始まった話ではないからだ。何事も簡潔に話すことが正義と考えるヒトが多い昨今では、理解されない葛藤である。

 
 分からないから良い、という感情を「~過ぎる」と同義に見なす価値観は嫌いだ。もっとも私の潔癖な性癖に過ぎないのだろう。クサい言い方をすれば、それは魂から出た表現であるか、という疑問なのだ。「~過ぎる」という表現が一時の興奮状態ならば、私も感じることはある。一方で、何が「~過ぎる」のか検証することは難しい。そしてこの短い一生、昼の空しい奴隷として生きていくには、必要ないのかもしれない。


 しかし、こんな青臭いことを書きつつも、友人との飲み会で「これは美味過ぎる」と言われても、咎めることは出来ない臆病者である。そして、そんなはずは無いのに、この葛藤が自分だけと奥底で愉悦に感じる自分に嫌気がさすのだ。ヒトの感性・生き様は人それぞれなのだから。付け入る隙が無ければ、面白くないだろう。ものの役にも立たない文章を日々綴る虚しさも、中々悪くない。


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