私が/あなたが、文章を書く原動力となる感情は何か

 衝動的に書きたくなったので、常々考えていた「文章を書く原動力となる感情」についてまとめてみたい。

この記事を書くきっかけ

 基本的に小説以外の文章を読むことが苦手な私が唯一ついつい読んでしまう文筆家がいる。岸田奈美さんという方だ。たまたま誰かがnoteの記事を紹介しているのを見て一度文章を読み、最近また別の機会に別の記事に出会って読み、おもろいやんけと思ってよく見たら同じ人だった。それ以来私はこの人の感性が好きなんだな、と自覚してちょくちょく追い掛けさせていただいている。
 岸田奈美さんについては私のような新参のうじ虫が解説する必要なくnoteの民は皆大好きだと信じているので、今回衝動的に記事を書きたくなったきっかけの記事を貼らせていただくことで省略させていただく。

↑の記事内にて、『海辺のカフカ』に登場するある人物の言葉について述べる中で、以下のように自身のことを分析しておられる。

以前、編集者さんから言われたことがある。
「岸田さんのエッセイは、おもしろおかしく語られているけど、それは耐えようのない怒りや苦しみから始まっているよね」
無自覚だったけど、図星だった。
きっとわたしは、怒って、苦しんでいるのだ。障害のある家族を持ち、父を亡くし、模範的な社会人として必要な才能を持ちあわせておらず、運の悪いことばかり起き、それゆえにぶち当たってきた、思い込みや押しつけといった社会の壁に。
怒りや苦しみをそのままぶつけることは性にあっていなかったので、心のままにおもしろおかしく書いていた。でも源泉はたしかに、怒りと苦しみだ。

(すいません、noteの仕様が全然わからない機能音痴ぽんぽこなのですが、引用は段落ごとに切れちゃうんですかね仕方ないんですかね)

 これ。この部分。
 村上春樹も肝心の文藝春秋digitalでの企画についても全然関係ない部分に反応してしまい恐縮なのだけれど、「あ、やっぱりそうなんだ」と思うと共に常々自分が考えていることに繋がっていたのでついこんな記事を書き始めてしまった。

誰かの文章の裏にある感情

 岸田奈美さんの文章について、私は編集者さんと同じ意見を抱いていた。

 いつも面白おかしい言葉選びで、岸田さんが感じたことや考えたことを飾らずに書いておられる。とても気軽に楽しく読める一方で、軽快な文章で綴られる思考の奥深さが彼女の書くモノたちの魅力なのだと思う。

 その思考はとても優しい。表面的なことだけでなく、その裏に隠された形の無いモノを静かに見つめている。彼女はきっと誰もが当たり前に抱えている「人それぞれのどうしようもなさ」を知っているから、こんな風に優しく、しかし静かに達観した視点で考えることができるのだと。
 それは同調や共感ではない。聖母に望むような博愛的に配り散らされるものでもない。一元的な承認欲求を持つ人によっては冷淡だと思う場合もあるかもしれない。だからたぶん私は岸田さんが怖い。文章を面白いと読みながら、一方心のどこかで恐怖している。だが、別の人々にとってはこの上なく「優しい」と感じるのではないだろうか。
 ちなみに、私はその「モノの考え方や眼差し」がご自身が体験してこられた苦難により培われたものだとは思わない。そうではなく、おそらくはじめから他者を(時には自分を)他者として分析する能力をお持ちだったのだろう。どちらかと言えば、その能力で以って苦難を乗り越えてこられたのかなと思う。

 こんなに偉そうに語っておいて私は岸田先生ニワカ勢なので、ご本人やご本人を詳しく知る方には「は???????」と思われるかもしれない。たかが著作物の一部を読んだだけの人の感想であって、押し付けるものでもないとご理解、ご容赦いただきたい。しかもめちゃめちゃ話が逸れてしまった。

 文章の裏にある感情について。
 上述したような、私が「モノの考え方や眼差し」と呼んだものは、自身が何かに対する怒りや苦しみを持ったことがあり、かつそれが「どうしようもないもの」だと知っている人だからこそ持てるものだ。
(「どうしようもない」と私が形容しているものは、編集者さんによると「耐えようのない」になるのかもしれない)
 そんな風に漠然と感じていたところ、記事の中で↑のように書いておられたので、やっぱりそうなのかぁと思ったわけである。私が怖いと感じる理由もそこに起因しているのだろうか。いや知らんか。

 私がこの記事で書きたいのは、どんな人であってもやはり文章の裏には何かしらの原動力となる感情があるのかなぁということ。
 noteでは私と同じく「書かずにはいられない人」や「表現の方法として文章を選んだ人」が沢山いる。文字で稼いで飯を食っている人も、共感を呼ぶ文章で読者を沢山集める人も、物書きに憧れてとりあえず書きまくっている人も、他の表現方法はできないけど文なら私でも書けるかな~と思ってなんとなく書いてみた人も、色んな人がいるけれど、書くという行為では皆同じだ。

 みんなその裏には原動力となる感情があるのだろうか。
 身が千切れんばかりの感情を文章に託す、なんてことがあるのだろうか。

友人に「作品を通して何を昇華してる?」と聞かれた

 別の人の例をとる。

 私には博識で頭のいい、でもちょっと抜けたところがある癖の強い友人がいる。文章・絵・漫画etc.と幅広い表現方法で創作活動を楽しんでいる人で、何事に対しても常に自分の意見をはっきり持てる力強い人だ。互いに頑固な上に感性が完全一致するわけではないので、私とは時に衝突したり、一時絶縁状態になったりもした。私たちは決して交わることはないだろうが、しかし、私にとっては尊敬できる創作仲間である。

 この前その友人に、「作品を通して何を昇華してる?」と聞かれた。

 結論から言って、友人の場合は「怒り」である。
 社会への怒り、偏見や差別への怒り、「いるいる、そういう奴~w」と言いたくなるようなクソッタレな誰かへの怒り等、様々だ。だが、私の知る限り、友人は常に何かに怒っている。
 
 創作活動の原動力が「怒り」だという創作家はそれなりに多く見られる気がする。文章に限らず、芸術家でも沢山いる。私が不勉強なのであまり具体例を挙げられないのだが、ピカソの「ゲルニカ」なんかは激おこで描いたと伝記かなんかで読んだ。
 もちろん、「怒り」というのは創作活動に限らず、政治とか商売とかとにかく色んなものの原動力になる。人間の感情の中で最も強いエネルギーを持つと聞いたこともある気がする。
 だから、原動力となる感情が「怒り」というのは極自然なことだ。文筆家の場合は怒りを覚えた時それを文章に託して表現しているだけのこと。「怒り」は発散しなければならない。でも、面と向かって怒鳴り散らしていてはただの迷惑な人である。立場上言えないことだってあるし、口にしたところでどうにもならないことは数え切れないほどある。そういうときに、文章を書く人は文章で、彫刻を作る人は彫刻で、ダンスを踊る人はダンスで、それぞれの方法で以って発散している。

 私の友人は怒りを自覚している。
 でも、必ずしも誰もが自分の感情を自覚して創作活動に臨んでいるわけではないだろう。ちなみに私はわからない。わからないから、ずーーーーーっとそれを考えており、いつまでも自己分析を続けている。

私の文章の原動力となる感情はなんだろうか


 私は人生の半分を同じ一つの長編小説を書き続けることに捧げているだらだら執筆勢だが、その作品を通してどんな主張を伝えたいのかと言われると言葉に詰まる。テーマみたいなものはある。ただ、私自身が群像劇を好むストーリーテラー型(←かっこいい)なのもあって、例えば悪役に怒りの対象を投影させるとか、登場人物の誰かに自分の主張を代弁させるとか、そういったことは殆どしない。あってもそれは主軸には絶対にならない。

 怒りでないのは確かである。
 昔は怒りを覚えることができた。しかし、抑うつ症状に悩まされるうち、怒ることに疲れ切ってしまって今では怒りを覚えない。怒るより先に悲しくなってしまう。
 また、私は怒りが怖い。HSPだからかなとも思うのだが、自分に向けられたものでない怒りでも恐怖してしまう。だから、本当に大変申し訳ないのだけれど、実は上記で述べた友人の文章を読むのが少し苦手である。構成力があるので展開は申し分なく面白いと思うのに、ストーリーと全然違う部分で読むことができないことがある。
 私の基本表現方法は文章なので、腹立たしい出来事を文章で伝えることはある。だが、随筆など読み物として書く場合、書いているうちにげんなりしてしまう。私の崇高な(?)文章という表現方法が台無しになる気がする。人それぞれだから私の場合は、だけれど。こういう時私は、私の文章は怒りを表現するためにあるのではないと実感する。

 悲しみか愛しさか。

 普段の私の内面を占める二大感情は悲しみと愛しさである。
 私は人間とゴキブリ以外の大体の生命を愛していて、自分を含めた人間というものに深い悲しみを覚えている(ゴキブリには憎悪と恐怖しか感じない)。でも、人間の想いというものは愛おしい。人間のどうしようもなさは時に他の何ものよりも愛おしいのだというのは、数ある文豪の作品が物語ってくれている。
 私の文章の原動力となる感情は悲しみだろうか。愛しさだろうか。私がこの長編小説の中で一番書きたいシーンでは、ある登場人物が深い悲しみとそれ以上に深い愛しさを感じている。それは私の感じている悲しみや愛しさとは対象が異なる。しかし、私はその感情を書きたいのだ。

 言葉にすらできないような遣る瀬無い想い。

 感情には言葉にできないものが沢山あり、また同じ言葉で言い表していても、決して自分と他人が感じている「ソレ」が同じ感覚とは限らない。
 ある程度同じと思われる部分を指して「怒り」「悲しみ」「憎しみ」「喜び」とかなんとか呼び方を付けているだけだ。
 だから、私がどんなに自分の文章の原動力となる感情を探そうとも、そもそも既存の言葉に意味が一致するものではない可能性もある。そんなものを考えること自体意味がないのかもしれない。

さいごに

↑で紹介した岸田さんの記事の中で、ご自身がご自身の源泉となる「怒りや苦しみ」について考えた後、こんな記述が出てくる。

わたしは、ゆるさなければいけないのだ。ゆるすためになら、文章を書き続けていられる。自分の文章に、救われ続けることができる。

 この方の場合はこうなのだ。
 考えた末、こういう結論に辿り着く。

 私の場合はどうなんだろう。

 小説を書くことは、文章を書くことは、私を救ってくれる。
 完成した文章はどうでもいいけれど、伝えたい想いをできるだけ正しく表現できる描写を模索している最中が最高に楽しいのだ。それに没頭している間だけ、苦しいことも悲しいことも病んでいることも向き合わなければならないことも何もかも、忘れていられる。逃避じゃないかと言われればそうかもしれないが、書くことも時にまた苦しいので、実はそうとも言い切れない。ただ、書いている間だけ、私は私らしい自然体でいられるのかもしれないとは思っている。

 これを読んだ方々はどうだろうか。
 別に私に教えてくれなくても構わないので、気が向いたら考えてみてほしい。あと、そんなことより引用した岸田さんの記事を読んでほしい。

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