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【軍隊生活の思い出 -最終話-】復員



復員

名古屋港

そのうち年も明けて五月となり、いよいよ復員の日が近くなりました。

おそらく二十日頃、米軍の大きな船が来ていました。どの位の人数であったか分かりませんが、いっぱい詰み込んでレンバン島を出航しました。


約一週間で鹿児島の桜島が見えました。皆、甲板に出て

「万歳、万歳」

といったものでした。

そのまま北上して名古屋港に着くと、多くの米兵が待っていて、一人一人頭から白い粉を振りかけ、消毒をして下船させられました。

近くの宿に入り、その夜は戦友達と最後の別れです。
復員やその他の証明書が渡されました。


温泉で一騒動

翌日、それぞれの列車で我が家へと向かいます。

途中、広島の原爆の痕を見ましたが、草木一本も生えていませんでした。誠に無残な光景でした。

更に列車は南下して行き、やがて門司もじ駅に着きました。


ここの温泉で一休みしようと入浴して、出て来たら、戦友の服が盗まれていました。

「さあ、困った~」

幸いにも私が下着を持っていたので、それで何とかなりました。

再び汽車に乗り、我が家に向かいました。


故郷

吉松に着くと、車窓の外から

「お~い、お~い」

と言う声がするので見てみると、病気で永く寝ていた兄が、元気になってホームに立っており、びっくりしました。

そこから一緒にまた列車に乗り、故郷の駅に着きました。


通りに出ましたが、どの家も雨戸が閉まっており、何かさみしい気がしました。

ようやく家に着き、母をはじめ、全員元気で大変嬉しく思いました。

これで私の軍隊生活も全て終わりました。

第二の人生の始まりです。


最後に、戦死した戦友の冥福を祈り、日本国の益々の繁栄と二度と戦争のない事を祈りつつ、ペンを置きます。


平成二十五年 五月 二十七日





あとがき

トップ画像は、祖父母の家の近くから見える風景写真です。左奥には霧島の峰が見えます。

祖父の故郷でもあり、わたしの故郷でもあるこの場所に帰った祖父は、そのあと祖母とお見合い・結婚することになります。


大変温和な人で、怒ったことのない祖父でした。
いまでも正月に帰省すると、健在の祖母から祖父の昔話をたまに聞きます。


若い頃はなにかと理由があって祖母が怒り、祖父に対して

「腹かいた」(腹が立った)

と言うと祖父からは

「背中は?」

と一言。

祖母も呆れてしまい、絶対にケンカにならなかったそうです。


そんな優しい祖父でも、動員中は隊の気合を入れるため、兵隊を一列に並べて体罰も辞さない姿勢だったのです。(3話参照

戦時とは、そういうものだったのでしょう。

国旗を振って見送られ(1話参照)、復員したら通りの雨戸が閉まっているなんて、祖父は想像もしなかったと思います。

敗戦国とは、そういうものなのでしょう。


たしかに、戦争は何も生産しません。


祖父の記憶には、おそらく子や孫には言えないような体験もあったかもしれません。


それでも、今のわたしより若くして国のために動員され、そしてレンバン島から無事に帰ってきてくれた祖父に、

大変お疲れさまでした、ありがとうございました。

と伝えたいです。


今日を過ごしているすべての家庭は、この悲惨な出来事を運よく生き延びた人たちの未来で構成されているのだと、そんな当たり前のことを改めて考えさせられます。

それぞれの世代、できれば楽しく、明るく、充実したものにしたいですね。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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