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【軍隊生活の思い出 -5話-】終戦



終戦

ジョホールバルに駐留

そのうち、部隊の異動の命令が下りました。

今迄渡って来た島を、後戻りです。戦況が変わったのだろうと想像しますが、我々には何も分かりません。

丁度、南方の雨期で、毎日決まった様にスコールがやって来ます。

この雨の中を毎日四十キロ、十五日間休みなく行軍し、六百キロ歩きました。若いと言う事でしょう。


やがてシンガポールの北端、ジョホールバルに着くと、ここで約一か月の駐留です。

ここは初戦で日本軍が激戦を繰り広げた地で、丘にはものすごい数の墓標が立っています。


敗戦のしらせ

マレー半島に入ると、すぐに小高い丘があり、そこに英国の皇族が立派な建物に住んでいます。

曹長と私の二人はそこに行き、日本の兵隊を入れる為出て行けと言ったのですが、軍の命令がなければ出ないと言って動きませんでした。


仕方ないので隊に戻り、それから二~三日して、曹長が命令受領に行き、再び帰って来て、

「困ったなあ」

と言いました。

私はハッと思って、二~三日前の事かと思っていたら、又命令受領に行きました。

今度は帰る早々、

「武装解除かな」

と独り言をいっていました。何の事かさっぱり分かりません。


次の命令は、小銃の菊のご紋章を削除せよ、とのことでした。
いよいよ八月十五日、敗戦の知らせなのでした。


武装解除

兵達は皆座り込んで泣きながら、ご紋章を削っています。

これからは英軍の命令になるのです。マレー半島に居る日本軍全部の兵器弾薬を一ヶ所に集めろと言うのです。

この大仕事を我々にやれと言う事でした。

小隊長以下、私含めた一分隊です。あるだけの兵器、弾薬を種類毎に分類し、数を当たり、表示して終わりです。


間もなく英軍の将校数名と、兵一ヶ分隊が来て申し送りがあり、トラックを持って来て、我々の目の前で兵器と弾薬を何処かへ運んで行きました。

後に海中へ捨てたとの話を聞きました。


我々には輜重車しちょうしゃ一台が残されました。米を積んでくれる大切な車両です。

輜重車しちょうしゃ:軍需品の輸送・補給に用いた車両

いよいよ捕虜の始まりです。


レンバン島での捕虜生活

マレー半島の中心部と思われる所に大きな飛行場があり、全軍の兵隊が集合しました。

マレー半島を走る貨物列車に乗せられ、やがて着いた所は、シンガポールの港でした。休む間もなく大きな貨物船に乗せられます。

最後の一人が乗り終わると同時に出航しました。


行く先は島流しの島で、無人島のレンバン島です。


一晩港の上の丘に寝て、翌朝ジャングルの中へと行きます。

着いた所は、右も左も只あるものはジャングルだけでした。ここに何時まで居るかもわかりません。

早速宿舎作りに取りかかり、材料集めに遠方まで出かけます。

茅を切りに一日午前、午後と二回出かけ、毎日作業で腹はぺこぺこでした。


第一週は、米一食に、四十五粒の入った重湯おもゆを空き缶で一杯飲み込むだけでした。これが一日三回あるだけで、一週間が終わります。

第二週はパン粉です。十三センチ四方の、深さが1.5センチほどの弁当箱があり、その半分位に入ったパン粉が一食分です。他に何物もなく、これが三食で一週間過ごすのです。後はお湯を一杯呑むだけでした。

第三週は、英軍の非常食一食が一日三回分の食料でした。日増しに体力が落ち、二十三~四才の若者が、杖がないと歩けない様になりましたが、それでも八時間労働を言い付けられます。


一週に一回、英軍の将校が巡視に来て、はたけなんかないのに、タピオカと言う芋の苗木を一本も枯らすな、と無理な事を言います。

雑木の山に丸ごと火をつけて焼き払う、いわゆる焼畑を行い、そこに芋の苗を植えました。半年位で根が出来ます。一回は食べた事がありました。


その他の仕事といえば、島を一回り出来る自動車道路と、マレーシア半島のライ病患者を収容する病棟を数棟造れ、と言うことでした。

これも二つ共出来た様でした。




「復員」につづく


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