葦会#09 藤原辰史「ナチスのキッチン:「食べること」の環境史」

3月30日(土曜)に行われた葦会について、
前回の投稿と同様に今回は簡易的な自分たちの備忘録として、書くこととする。宿題として溜まっているコラージュシティの投稿は骨がいることもあり、未来の自分に託したいと思う。

第9回目の会の様子(筆者:画面左)


今回は、参加者4人(うち一人オンライン参加)というかたちで行なった。選書である『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』について、簡単な概要は下記だ。

ナチスのキッチンー「食べること」の環境史
引用:amazon

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1919年から45年のドイツ(ナチスによる空前の支配体制下)での、台所の現代史。
システムキッチンの発明や家事労働、食材やエネルギーにいたるまで、台所を中心とした進化の歴史を描いている。

料理して食べるという人として基本的な行為が合理化、均質化されていく。その極地が台所のナチ化といえる。
良質の兵士を生産するため、ナチスが食糧確保、栄養摂取を支配する。そこで女性は良い母として台所を合理的に機能させることが求められる。
台所から時代の方向性が見えてくる書籍といえる。
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今回の書籍は、容量も多く、参加者の年度末の忙しさから
私自身含めて、熟読できていなかった参加者がほとんどだった。
会の進め方として、今回のような書籍の場合は、章分けを行いながら会を継続する仕組みを考えることも重要かもしれない。

本題である議論は、建築畑の4人ということもあり、今後のキッチンのあり方について焦点が当てられた。

某大学建築意匠論が専門であるK先生のエピソードが議論の始まりであった。
K先生は、最近の教育機関に新設され勝ちであるレーザー加工機やパネルソーなどの機械を充実させ、
ものづくりに触れる機会を増やそうという動きへの警鐘を鳴らしていた。

学生時代のコスト等制約なしに何でも自由に考えて作れるタイミングに、手軽に機械を使えてしまうが故、
機械の加工限界から逆算するように創作物を考える風潮を良しとしていなかったのだ。

他方、参加者のF氏から、一人暮らし用の台所ではあまり勧んで料理をする気にはなれなかったが、家庭用の台所を備えた家に越してから
料理のできる幅が増え、色々な料理にチャレンジするようになった、という話が挙がった。

これらの話から、下記のような議論がなされた。

ナチスドイツ化で発明されて以降、現代まで進化し続けたシステムキッチンは、今では家づくりの際に大きな予算を占めるほど強い要望がある。
そうしてキッチンの合理化、均質化が推し進められた結果、現代の台所はシステムキッチンの都合(企業の利益、工場の製作限界など)によって、
大きさなどが決定されており、そんな決められた台所の仕様で作れる料理は、実は皆無意識に規制されてしまっているとも言えるのではないか。
そして家庭の味と信じていたものは、台所の仕様によって似通っており、アイデンティティというものは、台所の進化とともに捨て去っているのではないか。

そこで、理想の台所とは、本来的であれば、利用者のどんな料理を作りたいか?という要望を先行して、製作で大きさや仕様など台所のスペックを決定していくべきではないか?と話し合われた。


城の家(手塚建築研究所) 製作キッチン
引用:門西建築HP


一方で、現代ではコロナ以降、出前や食事のサブスクサービスなどの食事の外部化が活発化していることで、そもそもこれまでのような家で料理を作る前提の台所はなくなっていくのではないか?という興味深い示唆もあった。


NOSH 弁当

こういった議論を踏まえ

①政治的な影響と建築都市
②ナチスドイツへの批評を行っていたハンナ・アレントの思想を展開する形で書かれている
③最近、著者がプリツカー賞を受賞した

という3点の理由から、次回は下記を選書することとなった。

権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ
講談社選書メチエ(2015年):山本 理顕 (著)


権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ
引用:amazon

次回は、ここにきて建築の本にもう一度立ち返ってきたことは、本会の選書方法ならではの面白さだと感じる。

約1年間ここまで続けてきたことになるが、複数回行ったことでだんだんと会の方向性や、この会を継続するためにできること、やらなければいけないこと、などが見えてきたように思う。

まずは、継続を目標とするための2年目という
向き合い方で個人的にはいたいと考えている。


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