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中身、外見。過程?


今日のお弁当(と言っても作ったのは幾分前)の主役はゴーヤチャンプルー
何とよく想像されるような緑色ではなく、白色
おばあちゃんの庭で育ち、私の弁当までやってきた
豚肉,豆腐,卵そして胡麻も仲間に入れてやって美味しい
煮る気分になれずレンジで堪忍したひじき煮は、やっぱりどこか寂しい。
なけなしのピーマンお浸し

ゴーヤって白色もあって、しかも味は緑色と対して差が無い事を知った
厳密には何か違いがあるのか調べたところ2点あり
・表面のイボの大きさ(白色の方が大きい)
・苦味(白色の方が少ない)
ゴーヤのごつごつ部分をイボという事に若干心地よくない気はしつつ、なるほど
たまたま私が会った白色ゴーヤがちょっと苦かったのか
そんなこんなで何となく白色ゴーヤに愛着すら湧いてきた

派生しているかしていないか微妙だが「中身」「外見」という比較対象にされる単語が浮かんできた
個人的に、やはり出発点というか基盤は外見
外見が良いということで個人の自信に繋がって、それは選択肢そのものを拡張する気がする
後からついてくるのが中身
そりゃついてくるとは言え元々が腐っていたらそこまでだけども

あともう1つ個人的にこれら単語に付属してくのが「過程」
例えば恋人に対する話(私:A  恋人:B)
A『欲を言えばそれ以上痩せないでほしいな〜何なら全然もっと太っても良い』
B『いやでも少し痩せたい。もし俺が痩せてげんなりするって事は、外見でしか
見てないってことだよね』
A『いやいやそういうことではないけど…。単純に好みはこうだよって意味。
別に好きにすれば良いけど、私の好みはこうって認知してる上でそれとは異なる事をするんだなって考えにはなるかな。つまり過程が大事って話』
AB『(すれ違い勃発)』

こう文字にするとあれ私が面倒くさい?とも思う節があるがまぁ目を瞑って…

自分の都合良いように色々言葉を置き換えているだけか?

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