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支えにするのは自分、のみ。


今日のお弁当の主役はキーマカレー
カレーにはセットだろうゆで卵(本用は半熟が良いがそれが出来ないのが弁当)と
なけなしの緑、ブロッコリー

カレーというカテゴリがとても好きで、キーマカレーも中々良い
なんだかこう、種々の具材が支え合い過ぎている様相に愛しさすら感じる
勿論そういった料理は他にもあるけれど、キーマカレーには特に秀でているような
味も食感も異なる食材等が肩を並べて細かく切り刻まれている
食材達、本望ですか

支え合うという感じをキーマカレーには感じつつ、さて表題。結論、これに尽きる。
平々凡々のようでよく言われる「人を支えにしてはいけない」
私はごもっともであると思う。細く言えば「支えの全てを人にしてはいけない」という方が適切か。
何をするにしても、自分以外の誰かを支えにして行為している場合、
その誰かが消えた場合(受動か能動かは問わない)、その行為自体がそこまでになると。
抽象的だけれど例として恋人。恋人を原動力として日々過ごしたり何かに励んだり。
とても素敵な事ではあるし勿論要素としては必要だと思うけれど、
それが100になってはいけないという感じ。数値で表すなら40以下がちょうど良い…?
ちょっとこれは不明だな
まぁつまりは、何をするにしても自分を支えにしていないと多岐において
停滞もしくは衰退するだろう、という考え。

自分を支えにしていれば他人への責任転嫁も多少は減らせるし、無駄に期待も抱かない
(口で言うのは簡単だが)
プチ虚勢張りあるかもしれないが現状私は割と実行出来ている方だと思っている
とゆうか正しくは思うようにしている。言霊で行こう。

だからこそ、他人(自分以外の何か)を支えにして都合が悪くなると責任転嫁のような事をしている場面を見ると何だかなぁの気持ちになる
自分以外の何かとは環境だったりが主。でもそれだってその環境にいることを選択しているのは自分ではないか、とも思う。確かにやむ負えない場合もあるからそれは例外だけどな

不平不満をいうのは全く問題無し。でもそれがまるでちっとも自分が起こした事ではないかのように見えるのは問題有り。

ただキーマカレーは皆で支えあっていってね。終わり。

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