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反成長小説~サリンジャー戦記を読んで~

野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』は読んだことがあるが、実のところ村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は読んだことが無い。しかし、村上春樹の語る『ライ麦』がどんなものかと気になって買ったのがこの本だ。
この本を読んでいて私が面白いと思ったのは、ヨーロッパの文学は成長小説が多いのに対してアメリカ文学は反成長的小説が多いと言っていた点だ。『ライ麦』の場合は主人公ホールデンが妹のフィービーのようなイノセントな存在を肯定し、大人たちなどを「インチキ野郎」と批判する。このように、イノセントな時代を称賛したりいつまでも青春時代で居たいというような文学が反成長小説である。また、村上春樹はカポーティも反成長的だと言っているが、サリンジャーのホールデンがイノセントな子供時代と大人の間にある思春期なのに対し、カポーティの場合は思春期という時期が存在せず、「イノセント」か「イノセントじゃない」かに二極化されているというのがなるほどと思った。
私は常日頃から主人公が成長していく小説は好きじゃないと言っている。漫画や映画ならそれでも良いかもしれないと思うが、小説だとなんだか説教じみていて面白くない。しかも主人公が成長する話の場合、主人公に何らかの試練を与えて~という風に話を組み立てていかなければならない。まあようするに私は根っからの純文学好きであり、エンタメ小説は好かないのだ。(SFとなると話は別だが)そんな訳で、これを読んで、どうりで自分はアメリカ文学が好きなわけだと納得した。そして村上春樹の小説も、主人公が成長する小説ではないという点で好ましいのだなと思った。ちなみに『罪と罰』なんかは、主人公が成長するのではなく、駄目になっている状態から復活していく復活小説なのではないかと私は考えている。

ところで私は少年というモチーフが大好きであり、少年が出てくる小説ならなんでも気になってしまうが、偶に「少年」と書いてあって意気揚々と読んでみると、高校生の話だったりして「騙された」と感じる。私の考えでは、高校生は「高校生」というジャンルであって「少年」ではないのだ。だけど『ライ麦』のホールデンは高校生であるが、イノセントへの憧れを持つ。そういう点で私は『ライ麦』を少年小説というカテゴリーに入れているのだった。


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