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席をゆずる、ゆずられる

昼間のバスで乗務していて、途中テスト期間中の高校生で満員になりながら終点に着いた時、話しかけてきたお客さんがいた。

「最近の高校生は席も譲ってくれないのねぇ〜」

杖をついた中年女性とみられるお客さん。聞けば人工関節を入れていて長時間立つのが辛いそうで、杖もついていた。
話への同調を求められている口調だったのだが、自分にとって全てに同調できる内容ではなかったので「高校生も言えばすぐ譲ってくれると思うんですけどねぇ」と返すと、そんな高校生像に呆れているようだった。「私も気づいてアナウンスで声をかければよかったですね、すみませんでした」と言っているとお客さんはそのまま降りていき、このエピソードは終わる。

このお客さんは私に話しかけることで、何か解決策を求めたわけでも、何かお願いしたかったわけでもなく、ただ愚痴を運転士に聞いてもらって共感を得たかったのだと思う。(「あなたも気づいてアナウンスしなさいよ」と責めてくる様子もなかった。)
でもその後の自分の頭は、この事象の分析と解決策をぐるぐると考え続けていた。

席を譲り合うのが当然だった昔、というものを若輩者の私は知らないのだが、ひとつわかることは、席を譲るという行為は席を譲る人だけで成り立つものではないということだ。席を譲る人がいて、さらにそれを受ける人がいないと成立しない。席の譲り合いが当然のものとしてある中には、席を譲られたらそれを断らずに受けるという行為も当然のものとしてあるはずだ。だとすれば、昔は「ここ座ってください」と譲る人がいたら、譲られた人は気持ちよく「ありがとう」と言って座っていたのだろう。
何が言いたいか。席を譲ってもらえないのが今であるならば、今は席を譲られても気持ちよく受けられない人がいるのもその原因たりえるのではないか、ということだ。
席を譲る側からみれば、席を譲っても「いやいや、立っていられるから大丈夫」と断られるだけならまだマシで、場合によっては「年寄り扱いしやがって!けしからん!」とキレられる場合さえある。こうした事例を経験してしまうと、その後もまた変わらず席を積極的に譲るのは難しい。席を譲るのがその人のためになるのか、逆に機嫌を損ねてしまうのか、そこまで見極めて譲らなければならないというのはあまりにも難度が高い。よほど立ち続けるには辛そうな歩き方であるとか、ヘルプマークやマタニティマークなどの分かりやすい目印をつけているとかでなければ、譲るべきか否かは見た目でわかるものではない。

最初の話に戻るが、私は仕事をしながら見ている限り、最近の高校生(少なくとも私がいる地域の高校生)が席を譲らないとは思わない。杖をついてヨボヨボと歩く人がバスに乗りこんできた時、むしろ中年世代より若者世代の方がさっと席を譲るので日々感心している。
また最近の高校生の多くは車内アナウンスをよく聞いていて、バスを降りる時にも気持ちよく挨拶をして降りていってくれる。中年世代はアナウンスを無視して動く人の割合が若者世代よりは多く、挨拶もない人の方が多い。つまり、高校生の方が周囲へのアンテナを張っていられる人が多いということだろう。(もちろんどの世代にも一定数、どうしようもない人はいるのでその層は除いて。)
だから「最近の高校生は席も譲ってくれない」という意見には同調できなかったのである。

代わりに答えた「言えばすぐ譲ってくれる」も、一般には先のお客さんのように「言わないと動けない」と否定的に解釈する人が多いだろうが、ここまで読んでもらった方にはそうでないことが伝わるだろうか。
席を譲る行為がプラスになるのかマイナスになるのかを判断しかねる人が近くにいた場合、大抵の人はひとまず様子見をするだろう。行動してマイナスな展開になるパターンは避けたいからだ。でも気にかけてはいるので、もしその人から「席に座りたいです」「譲ってください」などのひとことを言ってもらえたなら、嫌な顔ひとつせず迷わず気持ちよく動ける。そういう意味で言ったのが「言えばすぐ譲ってくれる」であった。

だとすれば、解決策を見出すのは簡単だ。
①席を譲ってもらえた人は、別に座らなくても良いと思っていたとしても「ラッキー」くらいの気持ちでお礼を言って座らせてもらうようにする。座れない事情があって断る場合でもお礼は言う。
②席を譲ってほしい時は遠慮なく「座りたいです」と言う。「譲ってください」とは言いにくいかもしれないが、こういう時こそ“Iメッセージ”で「座りたい」という言い回しをすれば、比較的敷居が低いのではないか。
この2つが多くの人によってなされていくようになれば、席を譲る行為もためらわずにできるようになり、席を譲ってもらいたい人が困ることも減っていくと思う。もちろん理屈としては簡単でも、実行に移すのが難しいのだが。

ここまでの内容で、私が席を譲ってほしい側の人に多くを求めすぎだ、譲ってほしい側になったことがないからそんなことを言えるのだと思われるかもしれないが、私自身も席を譲ってほしい側だった時期があることは付け加えておきたい。妊娠中だ。
妊娠初期に電車で立ち続けるのが厳しくなって、目の前にいたスーツを着て座っている人達に声を掛けたくても掛けられず耐えたこともある。妊娠後期に満員のバスで立ち、揺れに対して踏ん張るのが辛かったのでその場でしゃがんで「これなら大丈夫」と言っていたら、近くの人に声を掛けてもらえて席を譲ってもらえたこともある。
だから譲ってほしい側から声を掛けるハードルの高さはよく分かっている。分かっているが、同時にその時期、目に見えない辛さは言わなきゃ伝わりっこないというのもよく分かった。こうした経験があってこそ、上記のような解決策を見出したのだと思う。

もちろん「譲ってほしい」と「譲るべきか否か判断しきれない」が交錯する中で、バスの運転士としての自分はもっと積極的に声掛けをして橋渡しをしていこうとも思った。これも運転士からの“Iメッセージ”として、座ってもらえた方が運転する上で安心なので、誰か立っても大丈夫な方から席を譲ってもらえませんかというスタンスでアナウンスしたい。
それでも内部障害の方や妊娠初期の方だと、運転席のミラー越しにヘルプマークやマタニティマークが確認できない限り気づけないので心苦しいが。できる範囲でやってみようと思う。

思いがけず良い思索ができた。

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