見出し画像

日本語の特性、民主主義とかと相性悪いんじゃないか説

森達也『虐殺のスイッチ』を読んだ。
この本のテーマは、「なぜ、善良な人々が、人間を虐殺するのか?」という問題意識である。

結論を言ってしまうと、人間は集団化し、敵とみなした集団(それは往々にして弱者、マイノリティである)に対する不安や恐怖が高まったときに、少しのきっかけで虐殺に走る、というのがこの本で言うところの”虐殺のスイッチ”である。
ナチスは銃殺刑よりも"心理的負担”の低い方法としてガス室での大量虐殺を考案した。大量虐殺は歴史の中で繰り返されているが、それでも人間はふつう一対一で人間を殺すことには良心の呵責を覚える。それは、殺すという行為の主体がまぎれもない自分自身だからだ。しかし、集団になれば、その主体は曖昧になり、いとも簡単に大量の人間を殺すことができるのである。


ずっと気になっていることがある。大日本帝国陸軍の兵士たちは、人をためらいなく殺せるように、戦場で様々な訓練を強制された。つまり壊された。ところが壊れる度合いが小さい。もしくは復元力が強い。

森達也『虐殺のスイッチ』

PTSDは、ベトナム戦争から帰還した軍人でその後の日常生活に適応できない者が多く現れたことをきっかけとして研究が進んだ。それに比べ、日本ではあまりPTSD的な現象は着目されることなく、南京虐殺に加担した兵士や731部隊で捕虜を生体実験に使って殺してきた研究者たちが、戦後は普通の日常生活に適応していった、と森は指摘する(ただし、昭和のいわゆる”カミナリ親父”が実はPTSDを患った男たちだったのではないか、という説もあるためその限りではないと思う)。相対的に日本人が壊れづらい理由として、「日本人は組織と相性がよい=個が弱い」というようなことが、この本では指摘されていた。
まあ、そうだと思う。しかし、この”日本人”の特性とは、どこから来ているのだろう? まさか、日本人の「DNA」とやらに組み込まれているわけではあるまい。

私が真っ先に思い至ったのは、日本語の特性だ。

同時期に『コンサル脳を鍛える』という本も読んだ。コンサル脳を鍛えたいのかというと別にそうでもないが、私がこの本で最も興味を惹かれた箇所はこの部分である。

砂漠の宗教から生まれた欧米語と森の宗教から生まれた日本語

主語が王様の欧米語と、述語が王様の日本語。こうした違いを生んでいるわれわれ日本人の国民性は、何に根ざしたものなのだろうか。
(中略)
砂漠では、右に行くか左に行くかを考えるよりも、どちらであれ、まず進むこと、どちらかに進むことが生存確率を向上させるのに対して、森では、自然の恵みを最適に分配することが重視される。
この風土に基づく歴史が、日本人の熟考を尊ぶ気質をつくってきたことに、多くの有識者が言及してきている。
砂漠では、集団を一定の方向に迅速に導く必要があるため、リーダーを必要とし、言語が明瞭になり、結果、誰が何を言ったかが明確にわかる言語体系が進化した。
一方、その場から離れる必要がない森では、獲得する食料を最大化するため、集団が一台となることが必要となり、結果、個よりも集団が重視され、誰が言ったかを曖昧にし、集団から外れた考えが生まれないように曖昧な表現を繰り返しながら、集団としての結論を導出するのに便利な言語が確立されていった。

中村健太郎『コンサル脳を鍛える』

ここで、私はさらに『<責任>の生成』を思い出した。
現在の「民主主義」が正しい、というパラダイムに生きている我々は、「責任」とか「同意」とか「意志」みたいなものを自明のものと思いがちである。しかし実はそういうのは人間(というか欧米における、キリスト教を基盤とした近代的価値観)が、物事を合理的に処理するために発明したものなのである、というようなことが、『<責任>の生成』では書かれていたと記憶している。
行為の主体とか責任といった概念は、能動態・受動態ができたことによって明確になったが、それ以前の古代ギリシア語では能動/受動の枠組みではなく、「中動態」で語られていたという。そして、主語が曖昧な日本語はこの「中動態」の世界で物事を捉える言語といえる。

さらに先日、ソーシャルワーカー的な、相談や支援を仕事にしている人の話を聞く機会があったのだが、「相談を受けて対応する際、同意や意志を確認するようにするようにしているが、『なんでそんなことをいちいち確認するんですか』と否定的な反応をされることがある。その反応の根底には、同意とか意志とか面倒くさい、という感情があるようにも見受けられる」というような趣旨のことを聞き、あ〜日本語の世界だ、と思った。

投票に行かない人、行かなきゃいけないっぽいから行くけどどこに入れたらいいか分かんないからとりあえず自民党に入れる人、性的なことをするには同意というものを取らないといけないらしいので性的同意アプリを作ってしまう人、みたいなのも、全部根底にはこの「面倒くささ」があるような気がしてならない。

日本に、いまいち人権とか民主主義とかが根付かないのは、主語とかいちいち考えるのが「面倒くさい」からだと思う。それは日本人の怠惰さが100%原因かっていうとそうでもなくて、日本語という言語の特性上、主語を確定させて話すのがめんどくさいということが少なからず影響しているのではないか。

ここまで述べてきた日本語の特性とか、天皇制とか、どうも日本の世の枠組みで”普通”に暮らしてしまうと、欧米の言語やキリスト教を前提として発生してきた民主主義とか人権みたいな話をインストールするには、けっこう頑張らないといけないのではないだろうか、と思う。頑張れよ日本のみんな、と思うと同時に、頑張ってどうにかなるものでもないんじゃないだろうか、と弱気になる部分もある。
主語とか明確にしなくても、曖昧なずるずるべったりなままでも、人を殺さずにすむ枠組みってないんだろうか、とか無茶なことを思ってしまう。


(※天皇制が人権と根本的に相性悪い話については森島豊『抵抗権と人権の思想史』に詳しく書いてあります。あとラジオで話しました)

このnoteはradiotalkのこの回の補遺として書きました。
https://radiotalk.jp/talk/1081515


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,831件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?