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3月11日

あれからもう一年か。

早朝。夜行の高速バスから降りた僕は、真っ白な息を吐きながら、山の上にある仮設プレハブの陸前高田市役所を見上げてそう思った。東北の冬。冷たい風が顔に突き刺さる。僕は迎えに来る車を待ちながら一年前のことを思い出していた。

「明日のあきる野ヘルプの件なんだけど。私が車を出すので一緒に乗って行きましょうよ。迎えに行きますよ。」

そんな誘いを受けていたが、僕はあまり気乗りしなかった。誘ってくれたのはそこまで仲の良い仕事仲間というわけでは無かったし、むしろどちらかといえば少し苦手な部類に入る人だったからだ。何度か断ったものの、向こうもあの手この手で説得してくる。

(なぜこの人はそんなに一緒に行きたがるのか…??)

しかし、他の人も何人か一緒に乗り合って行くというし、さすがにこれ以上断るのもなあと思い、折れた。

僕らは同じFCチェーンの仲間だったが、それぞれ別の加盟会社に所属しており、普段一緒に働くことはほとんどなかった。しかし、その頃は地域のFC加盟店の連帯感が強く、あきる野に新しくお店がオープンするというので、周辺の加盟会社から研修という名の手伝いとして数名が行くことになっていた。

3月11日の朝、僕らは埼玉から4名ほどで乗り合い、関越自動車道から圏央道を通ってあきる野に向かった。とても良い天気で、正面には富士山がはっきりと見えていた。現場に到着すると、東京からの手伝いメンバーも電車で到着していた。

現場ではその日の計画をもとに、指示を受けながら手分けをして順調に作業が進んでいた。お昼は先にアルバイトスタッフさん達を休憩に入れ、僕ら社員は1時過ぎに少し遅めの昼食をとり、これから午後どのように作業を進めて行くかなどの打ち合わせをバックヤードでしていた。と、、、、

グラーリ、グラーリと大きく揺れた。一瞬、目眩の類かと思ったが、皆揺れを感じているようだった。窓から外を見てみると電柱がユッサユッサと揺れている。地震だ。しかも普通じゃない。その揺れは今まで自分が経験してきたものとは全く違う揺れだということがすぐに分かった。慌ててアルバイトスタッフさん達が作業をしている売場に飛び出して避難指示を出す。店舗内に残っている人間がいないか確認して自分達も外に出る。実際どのくらい揺れていたのかは分からないが、その日の自分のSNSでは「2分間くらい揺れていた」と記されている。今考えれば少し長く感じすぎているような気もするが、そう感じるくらい長く激しい揺れだったのだろう。

とりあえず仕事の現場はそれほど目立つような被害もなく、特に大きな問題はなさそうだったので作業再開。我々は自分の会社の店舗に被害状況などを確認…したかったのだが、電話回線が繋がらない。何度かかけ直すも接続できない。インターネット回線は生きていたが、当時はLINEもなく、結局TwitterなどのSNS経由で最新の情報を少し得るのが精一杯だった。この時、交通網の情報をもっと調べておけばよかったのだが…。

18時過ぎに仕事を終え、帰途に着こうと思ったのだが、まず電車が動いていないことに気づく。結局、僕らを連れてきてくれた車が頼りになった。他にも一台、車で来てくれていた人がいたので、東京方面と埼玉方面に別れて車に乗り込む。さて、来た道を戻れば…と思ったが、どうやら圏央道も通行止めになっている様子。仕方がないので下道を走らせるも、16号は大渋滞。瞬時に頭を「抜け道脳」に切り替えて、道案内をする。「あっち行って」「こっちの道抜けて」と指示を出しながら、なんとか2時間ほどで地元に近い駅にたどり着くことができた。

しかし、辺りは停電で真っ暗。駅前のタワマンも真っ暗な様子を見て、あんな高層マンションで停電なんて、上るの大変だなあなどと思ったりする。そんな状況なので当然私鉄も動いていない。一駅分、自宅を目指して歩くことになった。途中、ファミリーレストランで腹ごしらえをし、恐る恐る帰宅。パソコンがひっくり返って画面が割れたりしていたら凹むなあと思いながら室内灯に手を伸ばす。

幸いなことに自宅近辺は停電もしておらず、パソコンもひっくり返ってはいなかった。家中を確認してみるも、どうやら大丈夫。テレビを点けて状況を確認してみると…そこには驚きの光景が広がっていた。

当時、僕は気仙沼出身の人とお付き合いをしていた。実家はその時も気仙沼だ。仕事中もそんな彼女から悲痛な連絡がSNSを経由して入ったりしていたのだが、どうやら家族は無事らしく一安心していた。しかし、帰宅してテレビを点けてみると、そこに映し出されていたのはそんな彼女の故郷が津波に飲み込まれ、燃え盛る姿だった。濛々と黒煙があちらこちらで上がっている。自分の故郷がこのような状態になっている姿をテレビ越しに見るなんて一体どんな気持ちなのか。とてもじゃないが想像力が追いつかない自分がいた。

震災の翌年。僕は陸前高田と気仙沼にいた。彼女の実家を訪問し、現地の状況を間近にしていた。津波の被害にあった場所の瓦礫はほぼ撤去されていたが、辺りは一面荒野になっていた。廃墟と化した学校や役場などの鉄筋コンクリート構造の建物。陸地に打ち上げられた巨大な船。そこかしこに供えられた花束。地元の若者達は憂いていた。ますます故郷から離れる人間が増えるのではないかと。いや、この震災があったからこそ地元に戻ってくる者もいるに違いないと言う人もいた。

あの出来事から今年で12年。早いもので干支が一回りしてしまった。彼女のおかげで本来であれば遠かったはずの震災は、他の人よりも少しだけ身近なものになった。今、あの時隣にいた彼女とは別れ、僕は違う人と一緒になり家族と共にいる。あの現場にまた行きたいという気持ちを抱きつつ、今はまだ足が向かない。子供がまだ小さく、物理的に難しいという状況もある。いつかふらりと1人で訪れてみたい気もする。

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