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継続

なんかあ

今月中に記事を書けばあ

3か月連続執筆記録が継続するらしいんですよお

んなこと言われたらあ

とりあえず書くかあってえ

なるじゃないですかあ

っていうノリですう↑↑↑↑


相対性陽キャ論

 だいたいのオタク――広義での陰キャは相対的に陽キャになり得る。つるむ相手に「あ、俺はこいつよりマシだわ」と思ったとき、相手と自分とを都合のいいように比較してしまう。これを相対性陽キャ論と呼ぶ。
 相対性陽キャ論の当てはまる事例をいくつか紹介しよう。
・唯一のアウトドア趣味をやたらひけらかす
・カラオケで妙に流行りの曲を歌いボカロアニソンの類には知らぬ存ぜぬを貫き通す
・店員への態度が悪いわけではないが何故か声が大きい
・心臓をバクバク言わせながらも社交的なアピールをしたいがために饒舌になる
 以上
 注釈を添えておきたいのだが、相対性陽キャ論に従う場合は往々にして天然の陽キャなわけはなく、むしろ天然ものにかち合うと人間としての不具合が起きうる可能性を危惧されたし。

Bluetoothイヤホン

 高校のときに「これ五年前の写真」と満員電車の中で新聞を広げるサラリーマンを見せられたことがある。「今じゃ新聞なんかまず読まないし、みんなスマホだよね」的な文脈だ。
 たった数年で道具が置き換わる例は多い。かつての携帯電話と言ったらガラケーだったのに、今じゃ旧時代の遺物だ。
 ここ数年で置き換えられつつあるものの一つがイヤホンだろう。有線イヤホンを屋外で使っている人は多くない。ファッションアイテムとしても用いられるヘッドホンですら、コードレスタイプが多く流通している。
「いやいや普通に外で有線イヤホン使ってますよ」
 そういう方も多いだろう。もちろん利便性の面で軍配が上がる項目も多いが、数年経った後に屋外における有線がどれほど生き残っているだろうか。
 と、ここまで述べるとまるで情報社会を論じる文章に思えるかもしれないが、そんなことはない。私にそんな知識はない。
 単純な話として、無線イヤホンの弊害のひとつに通信切断がある。音楽を聴いているときにぷっつりと音が途切れるアレだ。通信切断が正しい言葉なのかは分からないが、とりあえず便宜上の表現として目をつむってほしい。
 私は音楽がぶっつりと途切れるあの感覚が嫌いだ。好きな人はまずいないと思うけど、なんかこう、エモーショナルな感覚がある気がして、いつか言語化したいなと思っていた。
 屋外で音楽を聴くことには、まるで別世界を訪れたかのような不思議な趣がある。そもそも音楽鑑賞そのものに、聴覚を丸々支配されるトランス的な風情がある。それを屋外という外部環境に身を置きながらデバイス一つで没入するのだから、コンサートやライブとは違う独特の感触になるのは当然だ。
 仮に有線であれば視覚的かつ物理的な接続があるから、音楽の発信源を実存として知覚できる。しかし無線イヤホンが耳に馴れてしまえば、デバイスの存在をキレイさっぱりに忘れて何の接続性もないまま音楽に浸れる。浸れてしまう。
 外部との関連が見えないまま、鼓膜を揺するのはお気に入りのプレイリストばかり。曲と曲の間にある一瞬の静寂ですら、曲に組み込まれて余韻に思えてしまう。
 ああ、音楽っていいなあ。頭を空っぽにして楽曲を聞き流しながら、帰巣本能に従って歩く感じ――
 そこで断線すると、軽度のトランス状態が一気に解消されて現実に引き戻される。脳裏で流れるMVやリリックの世界が消え失せて、目の前にあるどうしようもない世界がたちまち飛び込んで来る。
 この強制的に現実に引き戻されるみたいな感覚が嫌いなのだ。分かってくれる人いる?

人は第一印象が10割

 第一印象が人間の評価のほとんどを決めるらしい。外見とか性格とかは二の次で、とにもかくにも第一印象である。初めましての人とは話せる……みたいな現象があるのはそのためだろう。
 私は人の第一印象を靴で決める。靴が汚れている人はその他も汚れている。靴に気を配れない人は他のことにも気を配れない。靴に個性を出す人は他の面でも個性を出す。
 私は靴を見る。足元には人間心理が出るらしいから、あながち間違いでもないのだろう。足が臭いというのは、口が臭いのと同じくらい不名誉なことに違いない。
 というわけで、これを読んだ人は私の足元を見てみてください。自分でも凹むくらい靴が汚いんです。トホホ。

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