贔屓の去った宝塚大劇場で「男役の贔屓はもう居ないんだ」と泣いた話。
8月2日、雲1つ無い晴れ渡った空の下。
宝塚大劇場で贔屓を無事にお見送りした。もう、宝塚大劇場の地で贔屓には会えないって思いながらも、さほど実感はなくお祭りのような一日だった。
その後、雪組公演を観劇したが「寂しくないよ~」「まだ東京公演があるからね」なんて事をお会いした人に笑って話した。あの時はもう宝塚大劇場で贔屓に会えないなんて実感なんか無かった。
9月26日、贔屓が真の意味で宝塚を退団してからの一ヶ月。酷く落ち込むとか眠れないなんて事は全く無かった。よく眠ったしよく食べたし仕事は休まずこなしているし休みの日はジムに通っていた。日常は特に何も変わらなかったが、心の中では静かな水面に時々石を投げこむみたいな心情だった。ふとした時に贔屓の事を思い出すと静かな水面が波打つ。ピチャっと跳ねては波打ちまたすぐに落ち着く。落ち着いてはまた波打つ。そんな表現がしっくり来るのかな。よく分からないや。
贔屓は比較的早くSNSを始めた。もっとゆっくりしなさいよ~!と思いながらも、真面目な贔屓が宝塚でお世話になったお店や恩人に挨拶回りに行く姿を眺めていた。コメントがいちいち律儀だった。そう言う所が好きなんだな。退団公演中に通ってたシズクコーヒーさん。私の持っているグッズを目ざとく見つけたご主人が「寂しくなっちゃうね」「うちにもよく来てくれるんだよ」と話してくれた事を思い出した。退団公演中は一週間に1回通っては違う種類の豆を一通り試したっけな。過去に買った豆から好みの傾向を教えてくれる。あの激動の日々を乗り越えられたのは、家で淹れる香り高いコーヒーに癒されていたからだと思っている。
贔屓が宝塚歌劇団を卒業した後、星組公演へ足を運んだ。
贔屓もとてもお世話になった1個上さんで、私も思い入れのとても強い愛月ひかるさんの退団公演。贔屓を大劇場で見送った翌日の発表だったから気持ちの整理がなかなか付けられなかった。贔屓の時以上に「嘘だ嫌だ何で?」が頭の中で巡って来た。ちょっと思い入れが強いだけの私でそうなんだから、愛月さんのファンの方達を思うとどうしようもなく胸が痛かった。
星組公演は大劇場で3回観劇し、映画館中継を含め4回観劇した。
他組観劇は大体1回せいぜい2回ぐらいの私が4回も見たのは作品が面白かった!ショーが素晴らしかった!に尽きる。宙組公演だったら増やせる限りチケットを増やして嬉々としながら通い詰めただろう。ここ数年で一番面白かったと思えるぐらいとにかく素晴らしかった。
ショーの中詰め、銀橋に立つ星組の皆さんを見上げる。
友達に誘ってもらった席は、贔屓の退団公演でよく座っていた辺りの席だった。何度も何度もこの辺りから贔屓の立つ銀橋を眺めていた。そこには贔屓が居て丸い澄んだ瞳で色んな方を向きながら時々視線が飛んできて最後にビシッとウインクを決める。そんな席に近い席だった。その習慣なのか同じような場所を眺めてしまう。
ひろ香祐さんが目についた。ひろ香さんは上の方を向いていた。こっちがそれを一方的に眺めているだけだった。
贔屓はもう宝塚には居ないんだ。
底抜けに明るい笑顔のひろ香さんを見ていると切なくて涙が出て来た。あの視線の先に居る人は幸せだろうなと思うとたまらなくなって泣いた。私が大劇場で沢山感じた「贔屓と目が合って嬉しかった」気持ちをきっと今ひろ香さんのファンは感じている。どうか今沢山それを感じてねと言いたくなった。ひろ香祐さんには何の罪もないしとんだとばっちりだと思う(笑) 本当にごめんなさいなんだけど、まさかひろ香さんを見てそれを実感するとは思わなかった。
11月某日、宝塚を卒業して以来ぶりに贔屓に再会した。
しかも日比谷だった。
最後の3日間なんて「次に日比谷の地に来た時は贔屓は居ない」「もう日比谷にもしばらくは来ないだろう」と愛しく慈しむように風景を目に焼き付けたはずなのに(笑)あの日卒業を一緒にお見送りした方々にもお会いした。当然誰も何も変わっていなかった。
クローズドなイベントだったので何を話したかはここでは割愛する。宝塚時代から何度か着ていた白と黒のジャケットを着ていた。たった一ヶ月ちょっとで急激に髪が伸びる事は無く「リーゼントを作る為の特殊なカット」から「一般女性の髪型」になるべく伸ばしている最中であろう事が伺えた。スカートはまだ履けないけどピアスを開けたと言っていた。
男役を卒業した女性あるあるだろうか、肩の力が抜けたのかより一層柔らかい優しい雰囲気になっていた。男役ってだけで日常から無意識に力が入るんだと思う。男役の中にはオフだろうとコンビニ行かない・ファンの夢を壊さないとストイックにされる方もいる位だ。愛月さんに限らずそう言う方は一定数いらっしゃる。男役でいる事ってそう言う事なんだね。
会いたかった。
東京の千秋楽も観劇出来たしちゃんとお見送りさせて貰えたのに。
会いたかった。
私、こんなにも好きだったんだ。
あの空間の中で何度もそう思った。
大好きな丸い瞳を開いたり細めたりする、あの喋り方の贔屓が居た。ずっとそれを眺めていられる位大好きだった。トークそっちのけであの瞳の動きが気になっちゃうのはお茶会の時もそうだった。その瞳がより一層優しく柔らかく見えた気がして、話している姿を見て胸が何度も締め付けられた。「もう男役の星月梨旺は居ないんだ」を口にした時には泣けて来た。人前なので泣くギリギリで何とか踏ん張ったけど、本当は大泣きしたいぐらいだった。
宝塚で贔屓を愛すると言う事は、こう言う事なんだと思った。
「もうここには居ない」と言う事も、どうしょうもない胸の痛みや失った辛ささえも「贔屓を本気で愛した証拠」として受け入れていくのだ。
贔屓をお見送りしたばかりの人、これからお見送りをするであろう人。
きっと私達、しばらくはこのどうしょうもない胸の痛みを抱えて生きていくんだよ。それが贔屓ってもんなんだよね。それが愛するってもんなんだと思う。どうしょうもなく胸が詰まる日もあるけど、その辛さを抱えても有り余るぐらい贔屓に出会えて愛せて良かったなって思えるんだよ。
その痛みすら愛しいと思えるのは、推しを推せる時に精一杯推せたと言う事なんだと思った。